村上春樹の小説のロシア語翻訳者のひとり、ドミトリー・コヴァレーニンは、村上作品に登場する、日本語の「心」をどのように訳したらよいのか、悩んだという。
それは村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を訳していたときで、そのなかでいちばん悩んだのが、この「心」の訳し方であったというのだ。
村上春樹の英語翻訳者のうちのひとり、アルフレッド・バーンバウムの英語訳では「心」は「mind」と訳されている。
ドミトリー・コヴァレーニンは、村上春樹に直接にインタビューしたときに、その訳(mind)をぶつけてみたのだという。
…2002年にはじめて村上さんにインタビューをしたとき、「村上さん、’mind’で大丈夫ですか」と訊きました。彼は、「ウーン、どうですかね。’soul’でもない、’mind’でもない、’heart’でもない。三つの言葉の意味が少しずつ入っているけれども、さらに必ずあたたかみを付けるように。頑張って考えてください」と言われました。
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
たしかに、日本語の「心」を訳すことがむつかしいことがある。
逆に、バーンバウムが訳したような「mind」が英語にあったとしたら、これを日本語にどう訳したらよいのか、ということに悩んでしまうだろう。
ぼくは便宜的に、頭脳的なものを「mind」とし、(ハートで感じるような)心的なものを「heart」というように、じぶんの訳語のひきだしに収めているけれど、実際の文脈に入っていかないと、どう訳していいのかはわからない。英語から日本語訳では「カタカナ」を使えるので、「mind」の日本語訳は「マインド」とするようなこともある。
しかし、「心」の英語訳は、村上春樹が「…’soul’でもない、’mind’でもない、’heart’でもない」と言わざるを得ないような、そんな「心」である。
でも、さすが村上さんと思ってしまうのは、「…さらに必ずあたたかみを付けるように」と付けくわえてコメントを提示したことであり、その感覚にぼくは共感してしまう。
その意味において「的確なアドバイス」とも思われるが、「翻訳」の最終的な判断は、翻訳者に任せられている。
このような村上春樹のスタンスはいろいろなところで知ることができるが、自身も翻訳者である村上春樹の、「オリジナル・テキスト(原文)」の翻訳にたいするスタンスからも、照射することができる。
村上春樹は、かつて「原文」と「翻訳されたもの」の関係性について訊かれたとき、それぞれは「別のもの」でしょう、と応えている。そこで『グレード・ギャッツビー』の翻訳に触れながら、村上春樹はつぎのように語っている。
…いくつかの訳を比べて読んでみると、ひとつの全体像が漠然と浮かび上がってくるということはあるかもしれませんが、個々の訳はオリジナル・テキストとは別物だと僕は思います。しかし別物であっても十分に感動できるし、その感動がオリジナル・テキストを読んだアメリカ人の読者より劣るかというと、そんなことは決してないと思います。というか、優れた小説には、そういう多少の誤差を乗り越えて機能する、より大きな力があるんです。僕はそういうふうに考えています。ただもちろん誤差は少ないほうが絶対にいいです。
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書、2000年)
村上春樹は「正解な翻訳」というものは原理的にはないと考え、また、誤差は少ないほうがよいが、優れた小説の「多少の誤差を乗り越えて機能する、より大きな力」を信じているのである。
他のところでも語られるように、むしろ翻訳とは「誤解の総和」とも言えるもので、しかしそれでも、「総体としてきちっとした一つの方向性」を指し示していれば、それは優れた翻訳だと考えているのだ。
そんなふうな「翻訳」へのスタンスもあって、村上作品の「翻訳」の最終的な判断は、翻訳者に任せられている。
「頑張って考えてください」と村上春樹に励ましを受けたドミトリー・コヴァレーニンは、最終的に、この「心」をどのように訳したのだろうか。
…私は一生懸命頑張った結果、訳さないようにしたんです(笑)。「もののあはれ」のような考え方をいちばんよく訳すには、それを翻訳しないことだと思うのです。結局、「心」はできるだけ曖昧にしました。まあ、これは私のひとつの技、手法なのですけれども。
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
(一生懸命頑張った結果)「訳さない」ということを選んだドミトリー・コヴァレーニンの決断は、彼が語るように、「ひとつの技」である。
研ぎ澄まされた「技」であると、ぼくは思う。