世界で村上春樹はどう読まれているのか。
「村上春樹」を熱心に読む読者であれば興味のひかれる問いである。
でも、村上春樹を読まない人たち、あるいは読書にもあまり興味がない人たちにとっても、見方を変えてみれば、興味のひかれる問いであろう。
世界で日本のある作家(あるいは日本というもの)がどのように見られているのか、という問いに転換してみることもできる。
そのような問いは、『日本辺境論』での内田樹の視点を援用すれば、日本・日本人が、つねに、じぶんたちがどのように「見られているのか」という問いに回帰しつづけることで、じぶんたちのあり方を確認することの一環としてあるように見える。
なにはともあれ、「世界で村上春樹はどう読まれているのか」をめぐるシンポジウムが2006年に日本で開催され、『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)として編まれている。
「村上春樹」作品をさまざまな言語に訳す翻訳者たちなどが集まり、いろいろな視点で、ワイワイガヤガヤ、それぞれの翻訳版の紹介や議論をくりひろげてゆく。
そこでは、論点は、村上作品を基点にしながらもそれをこえて、日本や日本文学や日本文化、またグローバリゼーションなども加わってゆくのだ。
それでも、とくにひきつけられたのは、アメリカの小説家リチャード・パワーズ(Richard Powers)による基調講演「ハルキ・ムラカミー広域分散ー自己鏡像化ー地下世界ーニューロサイエンス流ー魂シェアリング・ピクチャーショー」(柴田元幸訳)であった。
2018年に発刊された最新作『The Overstory』が「2018 Man Booker Prize」の最終選考にのこり、またこれを読んだ柴田元幸が、リチャード・パワーズの代表作を簡単に決めつけてはいけないと思い直したという作品を書き続けているリチャード・パワーズ。
このひどく長い題名を冠した基調講演の冒頭のほうで、もろもろのあいさつを終えて、いよいよ、この長い題名のつけられた「世界」へと誘おうというところで、リチャード・パワーズはつぎのように語りはじめている。
いまからおよそ十年前、村上春樹が傑作『ねじまき鳥クロニクル』の仕上げにかかっていたころ、イタリアはパルマの研究所で、国際的なニューロサイエンティストの一団が、心のはたらきをめぐる、現代有数の影響力甚大な発見に行きあたりました。…
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
「講演」の体裁・形式からはみだしてゆくように、なんとも「物語」的な語り口で、リチャード・パワーズは一気に聴衆を、彼の「世界」へとひきこんでいるように見える。
少なくとも、これを読みながら、ぼくはなにか違う世界に入ってゆくような、そのような感覚にみまわれたのである。
ところで、ここで指摘される「影響力甚大な発見」とは、「ミラー・ニューロン」として知られるメカニズムのことである(この文章を読むまで、ぼくは「ミラー・ニューロン」の発見はもっと前の時代のものだと勝手に思っていた)。
このメカニズムによって、他者による行為をみるときに、「鏡」的に、自身のなかで同じ神経細胞が作動し、高次元の認知機能に益している。
リチャード・パワーズは、このメカニズムが発見されたサルの実験とヒトの実験にも言及しながら、そのインパクトと意義を語り、さらに村上春樹の作品と交差させてゆくという、なんとも興味深い、不思議な世界に、聴衆(読者)を誘ってゆくのである。
この「ミラー・ニューロン」とそのメカニズムの発見を含め、脳科学は1990年代にさまざまな発見や理論を生み出したことにふれ、それらをベースとした理解では、心というものは、「何百もの分散したサブシステムに分解され、それら一つひとつが、ゆるやかに絡みあった連合関係を成して、それぞれ個別に信号を発している」と、リチャード・パワーズは語る。
そう語りながら、彼は、「私は誰なのか?」という、古典的な問いとそれへの応えに接続させる。
…たったひとつの単語を口にするだけの営みですら、百人あまりのミュージシャンにシンフォニーを演奏させる行為になぞらえてもおかしくありません。
だとすれば、「私は誰なのか?」という自己の感覚も、こうした雑多なプロセスの上に浮かんでいるのであって、一義的な「アイデンティティ」などではありえません。それは騒々しい議会であって、そこではゆるやかなルーツでつながった議員たちがたがいにアップデートしあい、模倣し、修正しあう。そうした交渉を通して、自己はそのつど自らを作り上げているのです。そして、これがリツォラッティによるミラー・ニューロンの発見が示唆しているさらに重要な点ですが、そうした一人の人間の自己というゆるやかな議会は、それが触れあうほかの人間の自己たちを時々刻々アップデートし、それらほかの自己たちによってアップデートされてもいるのです。『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
原文がわからず柴田元幸の日本語訳に効果もあるのかもしれないが、自己の感覚を「雑多なプロセスの上に浮かんでいる」ものとしてとらえるのはイメージをひろげてくれるし、また「騒々しい議会」という表現もなかなかおもしろい(「議会」が言葉として使われるのは、アメリカ的なのかと、アメリカの中間選挙の状況を追いながら思ってしまうのである)。
一義的なアイデンティティのような「私」ではなく、他者をもまじえながら、つねにアップデートしあっている、それぞれの「自己」。
このような見方に、ぼくは賛同する(のだけれど、問いは、さらに射程を遠くに、あるいは深くに、投じられるところであるとも思う。たとえば、なぜ、「一義的なアイデンティティ」的感覚が(少なくとも表面的には)行き渡っているのだろう、とか)。
ぼくの、「私」をめぐる冒険、はつづく。