作家の沢木耕太郎は、その著書シリーズで有名な『深夜特急』(新潮社)の旅で、まずはじめに「香港」へと飛ぶ。
「深夜特急」の旅から、おそらく35年ほど経過してから、沢木耕太郎はその旅をふりかえりながら、「香港」の日々についてつぎのように書いている。
香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。…自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
今でこそ、いわゆる食堂や屋台は(場所によっては)減り、ショッピングモールなどのレストランは決して「安い」とは言えないけれども、沢木光太郎が「素晴らしいクルージング」のように思えた「フェリー」は、いくつかのルートが閉鎖になりつつも、今でも香港島と九龍をつないでいる。
香港島の「セントラル」や「ワン・チャイ」から九龍の「チム・サー・チョイ」へ、あるいはその逆の航路で、フェリーは、香港に住む人たち(また観光で来ている人たち)を日々乗せて、航行している。
この「スター・フェリー」は、その歴史をさかのぼると、1888年にまで時計の針をもどすことになるのだという。
その後、香港島と九龍のあいだに位置するビクトリア湾をつなぐルートに、電車と車道(トンネル)が加わったあとも、フェリーは人々を乗せ、またそうありながら、「香港」を香港らしく彩っているのだ。
フェリーの片道料金は、週日/週末、上甲板/下甲板などによって異なっているけれど、たとえば週日の大人一人の料金は2.7香港ドル(約40円)である。
わずかな時間だけだけれど、この料金で乗るフェリーは、沢木耕太郎が語るように、「素晴らしいクルージング」だと思うこともできるのだ。
ぼくは香港に住みながら、スターフェリーに幾度も幾度も乗り、乗るたびにとても爽快で、「香港にいるんだ」というのを感じ、「素晴らしいクルージング」なんだと思うことだってできるのである。
沢木耕太郎がこのような「感覚」を抱いていたことを読みながら、ぼくは、真木悠介(社会学者の見田宗介)が著書のなかで引用するマルクスのことばを、ぼくは思い起こす。
真木悠介は、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)のなかで、『経済学・哲学草稿』におけるマルクスのつぎの箇所に着目している。
「世界にたいする人間的な関わりはすべて、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、思考する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛する、こと、要するに人間の個性のすべての器官は、対象的な世界の獲得 Aneignung なのだ。」「私的な所有はわれわれをひどく愚かにし、一面的にしてしまったので、われわれが対象を所有 haben するときにはじめて、対象はわれわれのものであるというふうになっている。」マルクスはこのように書く。…
真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
「人間の個性のすべての器官は、対象的な世界の獲得 Aneignung なのだ」という明晰な理解と実践は、徹底的にひらかれた「所有」(=対象的な世界の獲得 Aneignung)ともいうべきものである(あのマルクスが、そもそもこんなふうに考えていたのか、と目を見開かせるような考え方である)。
沢木耕太郎が、香港でフェリーに乗るとき、フェリーも、周りにひろがる香港の風景も、ビクトリア湾も、もちろん、沢木耕太郎の(私的な)「所有 haben」の対象ではない。
そんなことは、指摘するまでもなく、あたりまえのことだ。
けれども、大切なことは、それでも、沢木耕太郎にとっては、フェリーも、香港の風景も、ビクトリア湾も、徹底的にひらかれた「所有」として、つまり<対象的な世界の獲得 Aneignung>として、個性の器官すべてによって獲得(所有)されたものなのだ。
沢木耕太郎が駆使したのは、ただ「見る、聞く、嗅ぐ、感じる、思考する、直観する、感じとる、意欲する、活動する」という、人間に備わった器官であった。
旅という、解き放たれた世界のなかで、ふだんとは異なる仕方で、沢木耕太郎は周りの人や世界との関わりをつくってゆくということのなかに、このような鮮烈な感覚を「ひらいた」のだ。
ぼくはそう思う。
そして、もちろん、香港のスターフェリーだけでなく、ぼくたちは、日々、ぼくたちの周りにひろがる「世界」とのかかわりのなかで、「人間の個性のすべての器官」を駆使して、「対象的な世界の獲得 Aneignung 」をすることができる。