この「地球」を生きているぼくたちは、この地球が球体であることを「知って」いる(あるいは、ここが「地『球』」であることを知っている)。
学校でも習ったし、文房具店や百貨店には地球儀がならび、ニュースは「グローバル化」を語り、iPhoneやApple Watchのスクリーンは球体である地球をうつしだしている。
地球のなかにいるとそれが球体であるのかは、飛行機にのっても船にのっても「実感」できないけれど、宇宙飛行士が宇宙で<折り返したときの視線>は、そこに青い惑星の(光の都合で完全ではないが)球体をみることができる。
現代社会を正面からみつめ、肯定的な未来を構想する見田宗介は、「グローバル・システムの危機」の文脈で、つぎのように書いている。
球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である。
グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。二十一世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追求することえをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外はあるが、地球には域外はないからである。見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
球のふしぎな幾何学(無限であり、有限である)については、人によっては小さいころに考えさせられたことであるかもしれない。それは、あたりまえのことでありながら、しかし、思考や想像を触発するものである。
地球の「球体」をあたりまえのこととして認識しながら、あるいは地球のだいたいどこにどのような大陸や島があってということを想像しながら、ぼくの想像と問いは、「昔の人たち」がどのように、空間(また時間)を感覚し、認識し、想像していたのか、という地平へと向かう。それは、どのような「感じ」であったのか。
写真家の杉本博司の写真集『海景』シリーズのモチーフは、「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」という自問であったというが、そのモチーフとも共振するように、ぼくの想像と問いはある。
あるいは、極限してゆけば、養老孟司が「ヒトがいない世界」というものをものすごくリアルに考えているということとも通底しているのかもしれない。縄文時代や富士山ができる頃の日本列島の自然を見てみたいのだと、ずっと思っているという気持ちとの共振である。
真木悠介(見田宗介)は、「人間の解放」に照準をあわせながら、近代・現代とは異なる社会と出会うことを方法(「比較社会学」という方法)としている。名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)は、近代・現代とは異なる「時間感覚」をほりおこしてもいる。
今とは異なる「時間感覚/空間感覚」を実感してみたい、体験してみたいという衝動が、ぼくのなかにある。
オーストラリアとニュージーランドの歴史を書いた著作『History of Australia and New Zealand』(1894)で、著者のAlexander Sutherland(1852-1902)とGeorge Sutherland(1855-1905)は、ヨーロッパ人がオーストラリアを「発見」した当時の、「空間認識」から書きはじめている。
To the people who lived four centuries ago in Europe only a very small portion of the earth’s surface was known.
4世紀前のヨーロッパに住んでいた人たちにとって、地球の表面のほんのわずかな部分しか知られていなかった。Alexander Sutherland and George Sutherland『History of Australia and New Zealand』(Aberdeen University Press) ※日本語訳はブログ著者
限定されていた「ほんのわずかな部分」とは、地中海世界のすぐ周辺の地域、ヨーロッパ・北アフリカ・アジアの西側の地域であったという。
Round these there was a margin, obscurely and imperfectly described in the reports of merchants; but by far the greater part of the world was utterly unknown. Great realms of darkness stretched all beyond, and closely hemmed in the little circle of light. In these unknown lands our ancestors loved to picture everything that was strange and mysterious.
これらの場所の周りは、商人たちの報告で、あいまいかつ不完全に述べられる余白であった。しかし、世界の圧倒的に大きな部分はまったく知られていなかったのである。先には大きな暗闇がひろがっていて、明かりの小さな円に密接に取り囲まれている。これらの知られていない土地について、われわれの祖先たちは、奇怪でミステリアスなものとしてすべてを想像することをとても好んだのであった。Alexander Sutherland and George Sutherland『History of Australia and New Zealand』(Aberdeen University Press) ※日本語訳はブログ著者
もちろん、このあと航海術などの進展にともない、たとえばコロンブスの「発見」などにつながってゆくことになる。
それにしても、ある土地の先が「闇」であるような<地図>をもとに旅をしてゆくことが、どのような「感覚」のなかにあったのか。「オーストラリア」の発見を描写してゆく、Sutherland兄弟の本の「出だし」(旅の出発点)を読みながら、その想像の世界のなかに、読み手はなげこまれることになる。
そのことがたった400年ほど前のことであったのだということも、地球が球体であることをあたりまえのこととして知る現代の人間たち(そして、決心して行こうと思えば、いつだってこの球体をまわることができる人間たち)にとっては、なかなか想像しがたいことだ。
なにか結論や教訓などをひきだすのではなく、ぼくはただ、今とは異なる「時間感覚/空間感覚」を実感してみたい、体験してみたいという衝動について書いている。
それは、ひとつには、ぼくたちが生きている「今」という地点を、歴史的/地理的なマップのなかで「見渡す」ということでもある。ぼくたちが、どのような時代の、どのような所に生きているのかを、より客観的に知ることである。
また、もうひとつには、「今」という地点から、いったん想像的に<外部へ出てみる>ことで、「今」という地点ではなかなか手にいれることができない感覚と視点を手に入れようとする試みでもある。そうすることで、生きかたを想像的に創造する「翼」を手にすることができるかもしれない。
このようであることで、過去へ向かう旅は、現在と未来への旅である。