「日本だけ」と言われることを体験・経験のなかに確認しながら。 - 異国での<書き換え>。 / by Jun Nakajima


日本をはなれての異国の地における短い旅や異国に住むことを、それなりの長い時間をかけてしてきたなかで、それらの体験・経験がぼくのなかに少しずつ積層しながら、ぼくはときどき思うことになります。

「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」と言われてきたことは、かならずしも「日本だけ…」ということではないということをです。

「日本だけだよ、…」につづく言葉は、よいこともあれば、あまり好ましくないこともあります。

でも、実際の体験や経験のなかで、その風景のなかで、そのように語られていた言葉やイメージが次第にくずれてゆくことになります。

1回や2回ほど目にしたということ以上に、「日常」を生きてゆくなかで、「日本だけだよ、…」の語法が機能しなくなってゆくのです。


もう20年以上前のことになるけれど、ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口からでる水が「飲める」ということに、ぼくは小さな、でも意表をつかれたおどろきを感じたものでした(今はどうなっているかはわかりませんので、飲まれる際にはご確認を。なお、ぼくはそれでも蛇口からの水は沸騰させて飲みましたが)。

オークランドで、ぼくは同年代の人たち(多くはオークランドの大学に通っているニュージーランドの人たち)と一軒家をシェアしていて、ニュージーランドの人たちの暮らしかたを目の当たりにしながら生活をしていました。だから、フラットメートが蛇口からの水が飲んでいるのを見て、蛇口から水を飲めるのは世界で「日本だけ/くらい」と思っていたから、びっくりしたのでした。

飲むことにほかに、食べることでもそのようなことはあります。たとえば、よく言われる「麺をすする」食べ方。「麺をすする」食べ方は、日本人だけ/日本人くらいだと思っていると、ここ香港のレストラン・食堂で、となりの席の人が麺をすするように食べているのを見て、「あれ、違うぞ」と、ぼくはじぶんの認識をよびだして、そこに注をつけたり、あるいは書き換えをしなければならなくなるのです。そんなふうに「書き換え」をしたあとに、韓国のテレビドラマのなかで、麺をすするシーンがあるのを見たりもしました。

さらに、飲むことや食べることに加え、住むこととなると、ぼくはどこかで、住環境が「狭い」のは日本だけだと思っていたのでしたが、香港に住んでみて、日本だけじゃないぞ、と身体で実感することになりました。日本の細やかな技術や製品(たとえば収納用品など)が、香港のような場所に活躍の場をもっているわけです。


もちろん、「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」という言い方は、語っているものごとを誇張し強調するための便宜的な言い方かもしれません。ほんとうに「日本だけ」とは思っておらず、ただ圧倒的な少数としての意味合いで「だけ」や「くらい」を使っているということです。

それでも、そのような言い方をふだんからしていると、それがあたかも「現実」のように感じられたり、考えられたりしてしまうように、ぼくは思います。ぼくも生まれてから20年くらいのあいだに、いろいろな言葉や思考を吸収して、思い込みや偏った見方をそれとなしに、じぶんのなかに構築してきてしまったのだと思います。


さらに、これまでの巨大な知性たちが語り、知性たちの延長線上に「日本辺境論」として内田樹先生がえがく、日本・日本人の思考・行動様式も思い起こされます。


私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
 日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません…。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。…

内田樹『日本辺境論』新潮新書


「日本とは…」という日本文化論の<決定版>をもたず、常に同一の主題に繰り返し回帰する。日常のなかで、悩み、じぶんを見つめ直し、他者たちとの距離を確認し、じぶんのあり様をながめる。そのようなあり様が、「日本だけ」や「日本くらい」という語法とも、どこか結びついているように、ぼくには見えます。


いずれにしろ、ぼくは、じぶんの体験・経験のなかで、じぶんのなかの何かをこわしながら、じぶんのなかに何かをつくってきているのだということを、現在進行形の時制で感じています。