真木悠介(社会学者の見田宗介の筆名)の、とてもうつくしい著書『旅のノートから』(岩波書店、1994年)に、つぎのようなエピソードがおかれている。
金の卵を生むニワトリがいました。そのニワトリのもち主は、こんなにたくさんの金の卵を生みつづけるのだから、その「本体」はどんなに巨きな金の塊だろうと思ってそのニワトリをしめてみると、ふつうのニワトリの肉の塊があるだけでした。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
「合理的精神」のもち主である現代人であるぼくたちは、金の卵を生むニワトリなんていないこと、あるいはそんなニワトリがいてもその「本体」が金の塊などではないことを「知って」いる。
この話の表層をすくいとるだけであるのならば、読み手は、このニワトリのもち主の「非合理的な愚かさ」を読みとるだけだ。でも、ぼくたちは生きていくなかで、このニワトリのもち主と同様の「過ち」を、いろいろな状況でおかしてしまっているかもしれない。
ニワトリのもち主は、ここで、どのような「過ち」をおかしてしまったのだろうか。
べつの名著『宮沢賢治ー存在の祭りの中へ』(岩波書店、1984年)の「あとがき」のなかで、見田宗介は、この本を、どのように書き、どのように読んでもらいたいか、について触れている。
この本の中で、論理を追うということだけのためにはいくらか充分すぎる引用をあえてしたのは、宮沢賢治の作品を、おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちてあるのだ。…
…この書物を踏み石として、読者がそれぞれ、直接に宮沢賢治の作品自体の、そしてまた世界自体の、果肉を一層鮮烈にかじることへの契機となることができれば、それでいいと思う。見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へ』(岩波書店、1984年)
宮沢賢治と宮沢賢治の作品をとおして「自我」という問題、<わたくし>という現象を考察した著書は、その考察の論理とともに、宮沢賢治の作品を充分すぎるほどに引用して、賢治の作品という「果肉」をかじるように仕上げられている。
でも、ともすると、ぼくたちは「宮沢賢治の作品の芯や種」にどこまでも近接しようとする。あれだけの作品を書き上げる「宮沢賢治」を、宮沢賢治の作品と思想の深さときらめきにおののく者たちは、解き明かしてみたくなる。
宮沢賢治の「金の卵」のような作品に心をまったくうばわれて、金の卵のような作品を生む「宮沢賢治」の「本体」はどんなに巨きな秘密をひめているのか。まるで、「ニワトリのもち主」のように、人は、その本体の「中心」に向かって、本体を解体しようとし、また解体してしまう。
でも、どこまで中心をほりおこそうとしても、そこには、ただ「芯と種」があるだけで、おいしいりんごの「果肉」のようなものは見つからない。
だから、「果肉」にこそ思想はみちているのである。
そして、そのことは、宮沢賢治などの作家の作品だけでなく、「世界自体」の構造でもある。「あらゆる中心的なものの構造」(真木悠介)の機制である。
世界自体の「果肉を一層鮮烈にかじること」。それは、この「世界」の味わいかたである。
ぼくはこのことを、ぼくの経験にもとづく深い納得感を感じながら、真木悠介先生から学んだ。