<透明>と<豊饒>とは対立するのか?- 社会学者・見田宗介の思考にそいながら。 / by Jun Nakajima

「森のイスキア」を主宰していた佐藤初女は、かつて、<透明であること>を生き方としていた(ブログ:<透明>にみちびかれていく生。- 佐藤初女(「森のイスキア」主宰)の生き方にふれて)。

佐藤初女の書くものを読みながら、ぼくは、社会学者の見田宗介が1980年代に行った対談の「あとがき」として書いた文章、「<透明>と<豊饒>について」を思い起こしていた。

そこで、見田宗介は、自身としては<透明>にあこがれるのも、<豊饒>に魅かれるにもあるとしながら、そもそも<透明>とは、<豊饒>とは何だろうかと問い、これらが思想の二つの体質のようなものとして対立するものであるかどうかを考えている。

ぼくはもう一度、この対談と「あとがき」を読み返し、そこで展開されるかんがえ方と論理の明晰さに、圧倒される。

 

この文章は、小阪修平との対談(『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社)の後に、小阪修平による見田宗介の著作『現代社会の村立構造』(筑摩書房、1977年)への批判への議論として「あとがき」に書かれている。

小阪修平はヘーゲル哲学を下敷きとしながら、「外化ー内化」の論理が、世界を透明化することで豊饒をきりつめる論理ではないかとしてふれたことにたいする応答である。

見田宗介は、ヘーゲルからサルトルにまで至る近代西洋哲学の論理をおさえながら、その論理をひとつひとつ解きほぐしながら、また透明と豊饒という絡まった糸も解いていく。

ここではその詳細には立ち入らないけれども、解きほぐされていく論理と、その論理に「出口」が見いだされる仕方は、鮮やかである。

 

ひととおり、近代的自我の「論理」を追ったあとで、見田宗介はふたたび、<透明>であること、<豊饒>であること、をかんがえている。

 

 サルトルにとって、つまり、透徹した近代的自我の哲学にとって、自己だけが自己にたいして「透明」であった。けれどほんとうに、自己は自己にたいして透明か?あるいはほんとうに、他者は自己にたいして不透明か?あるひとにとって、「自己」もまた不透明であると観じられ、また感じられる。あるひとにとって、「他者」もまた透明であると観じられ、また感じられる。
 <透明>とは対象や世界に固有する属性ではなく、ひとつの主体に、対象や世界がたち現われてくる、たち現われ方のひとつの様相である。あるいは主体が、ある対象や世界に向って開かれている、その開かれ方のひとつの様相である。<豊饒>もまた同様である。

見田宗介「<透明>と<豊饒>について」『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社(見田宗介『定本 見田宗介著作集X』所収)

 

佐藤初女が<透明であること>を生きるとき、対象と世界は、透明にまた豊饒に、立ち現われていたのだと、ぼくは思う。

対象と世界が透明にまた豊饒に立ち現われるのは、佐藤初女がそれらに向って開かれているからである。

佐藤初女は「生物多様性」へ視線を向けながら、対象や世界の豊饒さにも開かれている。

佐藤初女が<透明であること>を生きるとき、透明と豊饒がともに現われるようなところに、佐藤初女の生をみちびいていったのだと、ぼくは彼女の語りに耳をすましながら、思う。