悩みを抱えた人たちを手料理でもてなす場、「森のイスキア」を主宰し、2016年に94歳で他界した佐藤初女(さとうはつめ)。
訪れた人たちが、食事がおいしいと感じるなかで、胸につかえているものもはきだし、「答え」を見出しながら元気になっていったという。
佐藤初女の著作『限りなく透明に凛として生きる』(ダイヤモンド社)の書名にあるように、彼女が追い求め、生きることのイメージとしてもちつづけてきたのが、「透明である」ということである。
「森のイスキア」の外にひろがる葉が透明に光るように、佐藤初女も<透明>になって生きたいと思ってきたという。
なぜ<透明であること>が大切かということについて、佐藤初女は次のように書いている。
…透明でなければ“真実”が見出せないからです。
自分が透明になって物事を見ていると、真実が見えてくる。濁っていると、真実が見えず、迷って事が解決しないのです。…
だからこそ、ただ生活して生きていくのではなく、自分も素直になって透き通って見えるような生活をしたい。…
佐藤初女『限りなく透明に凛として生きる』ダイヤモンド社、2015年
佐藤初女にとって<透明であること>は、彼女が書いているとおり、まずもって、じぶん自身が透明であることである。
じぶんが透明であることによって、他者をうけいれ、他者にひらかれる。
佐藤初女はそのようにして、<透明であること>を追い求め、生きてきた。
「透明」という言葉は、もともと、料理をしているときに出てきたという。
緑の野菜をお湯の中でゆがくとき、これまでの緑よりもいっそう鮮やかな緑に輝く瞬間があります。この一瞬を逃さず野菜をお湯から引き上げて冷やして食べると、おいしい。
野菜のいのちがわたしたちの体に入り、生涯一緒に生き続ける、これを“いのちのうつしかえ”と呼んでいますが、このとき野菜の茎を切ってみると透明になっている。
佐藤初女『限りなく透明に凛として生きる』ダイヤモンド社、2015年
この描写はとても鮮烈だ。
この「野菜のいのち」を視ることのできる視力は、佐藤初女自身が<透明であること>ではじめて手に入れることのできる視力である。
佐藤初女は「すべての食材にいのちがある」と考えているが、いのちを「奪う」ものとしての人間という視座をとらず、(食材の)<いのちを生かす>方向へと視座を転回している。
「食べること」が食物連鎖という世界でのいのちの奪い合いではなく、いのちの生かし合いというように乗り越えていこうとした宮沢賢治を、ぼくは思い起こす。
「野菜のいのち」の透明さということを、ぼくは幼稚園のときに、この身体で感じたことを、その感覚として今でも覚えている。
幼稚園の菜園で育った「きゅうり」を収穫し、その場で輪切りにして、少しの塩をつけて食べる。
その「おいしさ」が、今でも、ぼくのおいしさの感覚の<基準>のようなものとして、この身体に生きている。
それは、佐藤初女にとってみれば、<いのちのうつしかえ>ということだと、ぼくは自身の体験をそこに重ね合わせる。
心理学者・心理療法家であった河合隼雄が「森のイスキア」に宿泊したときの話が、この著書には出てくる。
河合隼雄は部屋の中をぶらぶらと歩き、何だろうなと言いつつ、ふと、「信仰かな…そこがふつうのところと違う」と言ったという。
佐藤初女にとってキリスト教への信仰は生きる指針であり、河合隼雄の発言をうれしく思ったことが書かれている。
しかし、佐藤初女の<透明な生き方>をつやぬいているものは、いわゆる制度的な「宗教」というものを深いところで超えていくような、まるで古代の人たちが太陽に向かって自然と手を合わせてしまうような、そのような原的な<信仰>であるように、ぼくには見える。
その<信仰>は、人だけではなく、自然を含めたいのちというものへの畏怖と信頼に支えられている。