「存在の海の波頭のように自我がある」(見田宗介)。- 「じぶん」という問題を問いつづけながら。 / by Jun Nakajima


ぼくが小さい頃から格闘してきた「問題」のひとつとして、「エゴイズム」の問題がある。

じぶんを守ろうとしてしまうじぶん、しかし逆に、じぶんをどこかおしころしていってしまうじぶん。

ときに、「じぶん」という枠が牢獄のようにも思えて、とても苦しくなってしまう。

ぼくから誰かに積極的にたずねることはしたわけではないけれど、学校の授業も、大人も、誰も、ぼくが納得のいく仕方で語ってはくれなかった。

だから、じぶんの経験をたぐりよせながら、かんがえるのだけれども、今おもえば、思考は「じぶん」の内部でめぐるだけのようであった。

 

時がすぎ、大学を休学してニュージーランドに住み、大学に戻ってから、ぼくは「本」を読むようになった。

その折に出会ったのが、真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)であった。

人類学者カルロス・カスタネダの著作を素材に、おどろくほど明晰な「世界」がそこに描かれていた。

 

メキシコのヤキ族の老人の生きる世界では、<ナワール>と<トナール>というように語られる世界のあり方がある。

<トナール>とは、社会的人間のことであり、いわば言語でつくられtら「世界」である。

他方、<ナワール>は、「<トナール>という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性」であるという(前掲書)。

社会学者の見田宗介(=真木悠介)は、このことの「イメージ」を、小阪修平との対談で、次のように語っている。

 

…あんまり考えなしに、感じだけを乱暴に言うと、ぼくの感じで言うと自然というのは内部だという気がして…。つまり、わたしは自然だという感じかな。…体感としていうと、<私>は自然の波頭のひとつだと。宇宙という海の波立ちのさまざまなかたちとして、個体としての「自我」はあるのだと。
 だから、ぼくにとっては、ことばとか観念のほうが外部という感じになる。
 …
 自我というのは宇宙の海の波みたいなもので、波が自己絶対化して自分自身の形に執着する場合に、明晰な波は自分の運命が数秒間にすぎないことを知っているから虚しいというニヒリズムを感じるわけです。海とたたかう波として近代的自我というのがあるというイメージが、ぼくにはあるんです。

見田宗介『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社、1986年

 

<わたくし>という現われは、大海に忙しなく行き来する「波」のようなものとして感覚されている。

それは、デカルトにはじまる西洋の近代化を支えてきた近代的自我の精神が、ことばとか観念を「内部」としてその外に身体や自然や宇宙を置くのとは、逆転したようなイメージとしてある。

ぼくにとって、このイメージはすーっと納得できるものであったし、ときにやりきれなさを感じてきた「じぶん」をかぎりなく広く捉える視野であった。

見田宗介が名著『宮沢賢治』の第一章の冒頭に、宮沢賢治の有名な詩集『春と修羅』の序、「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い証明です」という一節を置いているけれど、そこでも、いわば「海の波」のように、やってきては消えまたやってくるようなイメージが重ねられている。

 

このような、「存在の海の波頭のような自我」について、見田宗介は次のようにも書いている。

 

 存在の海の波頭のように自我があるのだとわたしは思っているのだけれど、海が「主体」で、波としての自我を「外化」したりするわけではない。海はただ存在し、その存在のゆらめきとして波は立ち現われ、光って、消えてゆくだけである。
 波がじぶんのつかのまの形(ルーパ)に執着し絶対化して、海と闘おうとするときに、波は勝手に自分自身を海から<疎外>するだけである。

見田宗介「<透明>と<豊饒>について」『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社(見田宗介『定本 見田宗介著作集X』所収)

 

「存在の海の波頭のような自我」のイメージはその後の見田宗介の仕事に光をあたえながら、小阪修平との対談から7年後の1993年に、真木悠介名で名著『自我の起原ー愛とエゴイズムの動物社会学』を書き上げる。

この著作の表紙は「波の写真」であり、裏表紙はしずかな「大海の写真」である。

リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の論理のもつれを、さらに徹底させていくことで、「利己/利他」の地平をきりひらく『自我の起原』は、ぼくが小さい頃からなやんできた「じぶん」という問題のありかと、そこにひらかれている可能性(と不可能生)とを、明晰な仕方で提示してくれた。

じぶんがなやんでいることは、世界のどこかで、あるいはこれまでの歴史のなかの世界で、きっとだれかが、正面から立ち向かっていっているものだということを、ぼくは心づよく思ったし、今でもそう思っている。

そこに生きるうえでの「解決」はなくても、知識や知恵としての、あるいは問いとしての「糸口」がある。

生きることの矛盾をひきうけながら、そこをどのように生きていくのかが、ぼくたちのひとりひとりに問われている。

そして、河合隼雄が言うように、その矛盾をひきうける「生き方」に、ぼくたちひとりひとりの<個性>が現れてくるのだと思う。