画家の宇佐美圭司は、21世紀を迎える直前に、「廃墟巡礼」の旅をしている。
アトリエでの制作から一年間解放された画家が、1998年から1999年にかけて、アジア各地や北アフリカに至るところに、文化遺産や遺跡の崩壊の場を訪れ、言葉を紡いだ。
旅の全体を貫くテーマは「崩壊と生成」。
言葉は、まさしく「生成」していくようにして、『廃墟巡礼』(平凡社新書、2000年)としてまとめられた。
廃墟の遺跡などを求め、旅を続ける。
廃墟をどのように「現在」に持ち帰れるかと問いながら、廃墟のなかに「未来」を予感する。
廃墟には崩壊と生成の振動があり、変容のなかでざわめく未来が予感される。蕾の崩壊が花の生成であり、散る花びらは種子の結実を祝福する。崩れゆくもののなかにこそ、生成するものの新たな息吹があふれ出すのだ。…
イランでは私はいくつもの「タッペ」の丘に立った。…
丘はつるりとした固い盛り土だ。しかし、それはざらざらした内部を持っている。ざらざらした内部へと想像力を向けること。
旅は、そんな「つるつるからざらざらへ」の一歩ずつの歩みだしだろう。
宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年
旅は、「ざらざら」を求めて、「ざらざら」の感触を頼りに、想像力をひろげていく。
宇佐美の身体は、タイ、ヴェトナム、インド、イラン、中国、北アフリカへと移動を続けながら、廃墟にめぐりあってゆく。
『廃墟巡礼』という本の文章や写真は、そのような経過を追っている。
文明という時間と空間を大きな視野でとらえる宇佐美の思考は、しかし、宇佐美の「創作」の過程のようにも、ぼくには聞こえてくる。
まるで、宇佐美がアトリエに立って、筆を持っているところに、ぼくがそばに立っているような感覚だ。
そのようであることで、「創造」ということの深い地層に、宇佐美圭司に導かれてゆく「旅」でもある。
この本を読んで、旅の終わりに、「崩壊と生成」から立ち上がる「未来」はこういう未来だというように、なんらかの「答え」を得るわけではない。
そうではなくて、ぼくたちは、崩壊と生成のなかに未来が立ち上がる「手がかりの見方」を得る。
「手がかりの見方」ですぐさま未来が見えるわけでもないけれど、「ざらざら」への想像力の入り口をつかむようなものだと、ぼくは思う。
別の言い方をすれば、それは崩壊から生成への「動き」をつかむようなものだ。
宇佐美圭司は、眼下の波しぶきに「静止・沈黙」を見ながら、その「運動(動き)」を、次のように記している。
…それは廃墟に液体を感受するのと同じことかもしれない。私は画家として、動かない画面に、どう動きや時間を表現しようかと試行錯誤を繰り返してきた。そんな精神の習慣が、「静」に「動」を読みとる眼や意識を付与するのかもしれない。
宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年
宇佐美圭司の旅からすでに15年以上経過したけれど、世界は引き続き「大きな移行」のなかに置かれている。
このトランジションは、「崩壊と生成」の<運動>でもある。
一言で言い換えれば、<創造>の過程である。
ぼくたちは、崩壊と生成の間隙に、どのような「ざわめく未来」を見ることがきるのか。
どのような「ざわめく未来」をひろいあげ、つくっていくことができるのか。
それは、(人類が存続する限りにおいて)終わりのない旅である。