整体の創始者といわれる野口晴哉の、地に足のついた考察を読めば読むほどに、その広がりと深さに圧倒される。
「子供の教育」(したがって、親や大人の言動)にかんする野口晴哉の考察の中に、「日本・日本人」についての考察がある。
「日本人には本当に独創性がないのだろうか」と、野口晴哉は自身に問いながら、簡潔かつ直球の考察をなげかえしている。
1960年代に書かれた考察で、日本の教育が「模倣の才能」を育て、独創性を壊してしまうような方向に行われていることを、野口晴哉は語っている。
…日本の教育に於て、一番大切にされているものは何かといえば、正確ということである。自分で思いついたことより、何かの標準に正確に合っていることの方が貴ばれている。思いつきより標準に正確な方が信頼される。正確というものは物差しがいる。物差しは自分以外のものである。正確が要求されればされるほど、思いつきは価値を失う。…思いつきが育たなければ創造ということはない。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
野口晴哉は、日本の教育で大切にされているものとしての「正確」に加え、「形式」と「記憶」が日本では大切にされているとする。
「形式」を厳重に守ることで、個人の自由な思いつきは脇にやられる。
そこで、「記憶」ということが大切にされる。
正確、記憶、形式というものをつきやぶることのない教育が、日本人の独創性を奪ったものとして、野口晴哉は考えていた。
およそ1960年代のことである。
このことは、50年ほどが経過してもなお、日本・日本人、また日本の教育につきまとうことであるように、ぼくは思う。
野口晴哉の文章を、「今の時代」のこととして読んでも、まったく違和感がない。
今も、日本は、正確・記憶・形式ということの中に、からめとられているようなところがある。
もちろん、日本の経済発展を支えてきたのも、これらである。
一様にきりすてるものではないけれど、あまりにも、これらに偏重してきたように思う。
野口晴哉は、この状況を打開していく方途として、子供たちの「空想」を育ててゆく方向を定めている。
私達はこれからの子供達に、正確だとか記憶だとかいうような、過去の残骸を押しつけることを止めたい。正確も記憶も、みんな過去のものであって未来のものではない。その過去のものから出発させるという教育を止めて、思いついたこと、思い浮かべたことを育てて創造に直結できるように、日本人の持っている空想性というものを育ててゆきたい。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
野口晴哉はこの文章に続き、「空想」ということを、あらゆる角度から論じている。
これらの考察は、人間にかんする深い洞察に充ちている。
ぼくの関心(「ストーリー・物語」論)にひきつけると、この「空想」は、「物語」を人の中に生成させるプロセスであるように、ぼくは見ている。
思いついたこと、思い浮かべたことが「他者の物差し(物語)」により抑制されるのではなく、じぶんの中に生成していく物語の芽となる。
そのように、ぼくは野口晴哉の「空想論」の中に、可能性を見出していきたい。