じぶんの「前提とする人間像・個人像」に気づくこと。- 「理論」に深く深くわけいって学んだこと。 / by Jun Nakajima

経済学でも政治学でもなんでもよいのだけれど、「理論」というものに深く深く入ってゆくときに、ぶつかる課題は、理論構築において「前提にしている人間像・個人像」である。

学問に限らず、個人や組織などでの人と人とのコミュニケーションにおいて「ズレ」が生じてくることの原因のひとつに、語る個人たちそれぞれが「前提にしている人間像・個人像」がある。

ぼくは、かつて、経済学者アマルティア・センの「理論」に深くわけいりながら、そのことを学んだ。

 

ひとつには、「経済学」が想定してきた人(行為者)である。

経済学は、自己の帰結状態から得られる私的利益の最大化を目標として合理的に行動する人間を前提にして、理論構築される。

近代の学問では、このような想定のうえで理論は積み上げられていくことから、いったん人間をそのように前提にして理論構築することは決して間違いではない。

けれど、いつしか、その「前提としている個人」が所与のものとなり、見えなくなり、構築された理論が「当たり前のこと」のように語られていってしまう。

アマルティア・センは、「合理的な愚か者」という論考において、経済学が前提とするこの「前提」に目を向け、人が、経済活動において、倫理観や道徳的な価値における選択をすることもある視点を導入して、内在的に経済学をひらいていくことになる。

 

また、アマルティア・センの理論が想定している「個人」は、自律・自律した「強い個人」であるという批判が寄せられていたことも、理論が「前提としている人間像・個人像」をかんがえさせられる。

理論が前提とし得る、「弱い個人」と「強い個人」という視点である。

詳細には入らないけれど、AさんとBさんがコミュニケーションをとるときに、Aさんは「弱い個人」を前提に話をすすめ、Bさんは「強い個人」を前提に話をすすめているのであれば、そこに会話のズレが出ることは、容易に想定できる。

 

このような、そもそもの「前提」としている人間像・個人像は、構築される理論や世界像などの全体を、違ったものにしていってしまう。

繰り返しになるけれど、このことは学問の世界だけにかかわることではなく、ぼくたちの日々の生活の隅々にまでかかわってくる。

そして、世界はますます多様化しており、「個人」を狭く捉えることはますます実態とそぐわなくなってきている。

このような世界において、まずできることは、じぶんが「前提」にしている人間像・個人像に気づくことであるように、ぼくは思う。

日々のいろいろな体験を通して、気づいていくことからである。