「April Fool's Day(エイプリル・フール)」を支えてきたもの。- 時代の変容のなかで、この特別な日をまなざす。 / by Jun Nakajima

2018年4月1日「April Fool’s Day(エイプリル・フール)」は、「Easter(イースター)」と重なる日となった。

「April Fool’s Day(エイプリル・フール)」という、この起源の不明瞭な風習は、時代の変遷とともに扱われ方も変わってきている。

昨今のフェイクニュースなどの状況は、「April Fool’s Day」の言葉と内実を彩っていた<暖かさ>の感覚をふきとばしてしまい、「April Fool’s Day」はすでに過去形で語られるようなところもある。

 

情報技術の発展・進展にともない、いわゆる「情報の氾濫」の諸相が、「現実」というもののあり方を変えていく。

「情報」という視点から見渡してみて、「April Fool’s Day」という風習を支えていたものは何であるのか/何であったのか、という問いを立ててみる。

別の言い方では、「April Fool’s Day」という日が、楽しく過ごされることの条件である。

文化の壁を越えるようにして、世界の各地で過ごされてきた「April Fool’s Day」を支えてきたもの。

 

個人的な体験をもとにそのことをかんがえていくと、「April Fool’s Day」を支えてきたものは、そこに参加する人たちの個々の「身体」であるように、ぼくは思う。

学校や職場などで、まさに、身体をはって、嘘をつく。

時にはみんなで知恵を出し合う。

嘘をつく相手に対峙し、相手の反応も確かめながら、そして相手の反応を期待しながら、嘘を投げかける。

身体をはって嘘をつくとは、身体を使った嘘ということではなく、このように、じぶんの存在をさらしながらつく嘘である。

しかし、情報の氾濫の時代において、そこでは「身体」が不確かになっていく。

情報の背後に「身体」はあるのだけれど、情報空間のなかで、それは抽象化されていってしまう。

ぼくは、「April Fool’s Day」を健全なものとして支えていたのは、個々の生きる、具体的な「身体」であったと思う。

 

これまでは、メディア媒体などを通じた「April Fool’s Day」の嘘もよく行われてきたのだけれど、もちろん、フェイクニュースの時代は状況を変えてしまった。

では、なぜ、以前はメディア媒体などを通じた「April Fool’s Day」の嘘は、それなりに特別な日の嘘として迎えられていたのか(問題が起きたことはさまざまにあったであろうけれども)。

そのようにも問うことができる。

ここでも、個々の「身体」が生きていたのだと言うこともできる。

そこに加えるとすれば、「社会というものが(おおよそ)このようにある」という日常にかんする共通の了解があったうえで、「April Fool’s Day」の嘘という非日常がもちこまれるという共通の了解があったからではないかと、ぼくは思う。

「社会というものが(おおよそ)このようにある」という日常にかんする共通の了解が、よくもわるくも解体されてゆくなかで、共通の了解という、ある意味での信頼がぬけおちていく。

 

このようにして、身体と共通了解(=信頼)がぬけおちていくような時代のなかで、「April Fool’s Day」の様相も変容をとげていると、ぼくには見える。

そしてまた、このような時代において、「April Fool’s Day」のもっていたような社会秩序における<遊び>を、どこに向けて突き抜けていかせるのかが、その先に問われているようにも、ぼくはかんがえる。