欲望論からとらえる<市民社会>。- 「社会」に生き、総体的/相対的に理解し、構想していくために。 / by Jun Nakajima


「近現代」という時代に生きながら、日々生きていくなかでいろいろなことに直面し、いろいろなことをかんがえる。

日々の人間関係から社会の出来事に至るまで、なぜこうなんだろうかという疑問をかたちづくるような体験・経験を積み重ねながら、自問しては「迷宮」のなかにもぐりこんでしまう。

そのような疑問を抱くことなく、ただ生きるということができればとも思ったりするのだけれど、現代社会とそこで起こることは「ただ生きる」ということをむずかしくしてしまうような、そのような磁場をつくっている。

だから、「迷宮」を脱して、人間や社会というものを論理として把握しておきたいとと、20歳を超えた頃に思い始めた。

「知識」として得たからといってすぐにどうこうなるものではないとわかりつつ、しかし、どうしても知りたいと思うようになった。

「社会に埋め込まれたじぶん」ではなく、「かんがえる」ということを始めたことの一歩のようなものであったかもしれない。

 

見田宗介の名著『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)を読んだときの興奮は、とても大きなものであった。

ぼくの「世界の見え方」が変わってしまうほどであった。

新書という形の小さい本ではあるけれど、深い洞察と明晰な理論で、現代社会を総体として描いている。

一度読んだだけでは理解できないことだらけであったにもかかわらず、知の深さと広さの体感にひかれるように、ぼくは幾度も幾度も、読み返した。

 

そこから時を経て、見田宗介が真木悠介名で書いた『現代社会の存立構造』(筑摩書房、1977年)を手にとり、この本も最初読んだときは一部しか理解できなかったけれど、そこで展開されていることの深さと広さの予感をたずさえて、ぼくは幾度も幾度も、まるで辞書を引くように読み返し、理解を深めるたびに、その理論の明晰さにただただ圧倒されるばかりであった。

そのエッセンスの一部が、1980年代に行われた、見田宗介と小阪修平の対談のなかで、<市民社会>の原理として語られている。

「対談」という形式は、複雑な理論が凝縮されて語られることから入門として入りやすい。

しかし、それだけで「わかった」というふうにはしてはならないけれど、「対談⇆理論の本」の双方向の読みをすることで見えてくるものがある。

 

「市民社会」という多義的な事象を、見田宗介は「欲望論」からとらえる視点を提示している。

 

…社会的な抑圧というものの根拠は、人間たちの欲望の相互関係にあると思うし、逆に言うと社会的な解放というものの、究極的な根拠というものも、やっぱり人間たちの欲望、欲望の相互関係にあると思います。

見田宗介『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2012年

 

このことを、もう少し展開して、見田宗介は次のように論理をすすませる。

● 抑圧というものの究極的な根拠:「欲望の相剋性」
● 解放の究極的な根拠:「欲望の相乗性」


「欲望の相剋性」については、例えば、「悪」というものは世の中に存在はせず、その正体は人間たちの「欲望の相剋性」にすぎないと語られている。

また、「道徳、理念、倫理」などという言葉で語られるものも、複雑なメカニズムを通して形成される、「欲望の相互関係の反射」(特に他者に対する欲望の相互反射)としている。

「規範」も、「欲望の逆立した影」と見田宗介は明晰に捉えている。

そのように把握しながら、「共同体」に比して「市民社会」をとらえていく。

 

…共同体とはなにかというと、人間たちの欲望の相剋性というものが、相互に規制しあう規範によって束縛されている状態である。…
 それにたいして、<市民社会>というものはなにかというと、人間たちの欲望の相剋性というものがいったん解放された状態であろう。…

見田宗介『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2012年

 

欲望論の視点から社会を透徹する仕方でとらえ、欲望の相剋性/欲望の相乗性という見方で、共同体と市民社会を定義する見田宗介の理論はとても明晰だ。

この見方は、ぼくたちが日々直面しかんがえていることに、次のように接続される。

 

 市民社会というものは、解き放たれた欲望の集列的なせめぎあいが基本にあって、それが積分形態として、たとえば市場法則とかその他の経済法則のように、さまざまな物象化された社会法則であるとか、あるいは貨幣というもの、資本というもの、物象化された法のシステム、近代的な国家権力というようなもの、あるいは物象化された時間、空間の観念とかを存立せしめる、そういう社会形態である。…
 結論から言えば、解き放たれた欲望の相剋性が、物象化されたさまざまな制度というものを幾重にも産み出してゆくシステム(メタシステム)であるというふうに市民社会をとらえるわけです。

見田宗介『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2012年

 

例えば、大学ではぼくたちは、政治は政治、経済は経済、法は法、国家論は国家論、貨幣論は貨幣論(経済)、時間論は時間論(哲学など)といったように、境界が区切られたままで学ぶことになるけれど、見田宗介の「市民社会の原理」は、それらを統合かつ一貫した論理で把握するものである。

この「市民社会の原理」が、「どういうメカニズム」で、貨幣、資本、法体系、国家、時間・空間の観念などを存立していくのかが書かれたのが、前述した名著『現代社会の存立構造』であった。

この理論の中心となる「欲望」の論は、その後、「欲望を抑える」という仕方ではなく、逆に「欲望をひらく」方向において、見田宗介=真木悠介の仕事のなかで徹底して追い求められていく。

つまり「欲望は欲望によってしか超えられない」ということの深い認識のもとで、<欲望の相乗性>の理論の展開へとつながっていくことになる。

 

現代は、貨幣、資本、法体系、国家などの、これまで基幹をなしてきたと思われるものが、変動(激動)にさらされてきている。

そのようなときだからこそ、社会や人びとの生を読み解き、社会のあり方や人びとの生き方を構想していく際に、見田宗介=真木悠介の展開してきた理論は、ますます、ぼくたちにとってよい対話相手となってくれる。

かつて、ぼくの悩みをもとに対話してきた見田宗介=真木悠介の理論群は、今のぼくにとっては、未来をひらくための対話相手のようなものとして、ぼくの生を支えてくれている。