小さい頃からぼくが感じていた「生きづらさ」の感覚の根拠のひとつのようなものとして、社会学者の見田宗介の次の言葉は示唆に富んでいる。
本源的に孤独なものたちがそのあかるい表層のつながりのうちにみずからの孤独をしらず、孤独でないものが孤立のうちにしか生きられないという奇妙な世界に、たぶんわたしたちは生きているのだ。…
見田宗介『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2012年
「孤独でないものが孤立のうちにしか生きられないという奇妙な世界」にわたしたちは生きていると、石牟礼道子の文学を語るモチーフとして、そのような「奇妙な世界」を見田宗介は描いている。
奇妙な世界の「あかるい表層」のうちにじぶんを引き出すのだけれど、ぼくはそのようなところに居心地の悪さを感じてきた。
幸いにも、ぼくの周りにはこの奇妙な世界のなかであっても「まっすぐに語る」人たちが現れて、その「まっすぐさ」に支えられながら生きてきたようなところがあると、ぼくは思う。
そのような人たちは直接的な関係性にかぎられず、見田宗介、石牟礼道子、河合隼雄などの本を通じて、ぼくは「孤立」せずに、奇妙な世界で生きてきた。
見田宗介は、この「奇妙な世界」を、<市民社会>という視角において書き足している。
「市民社会」という言葉は多義的であり捉えられ方や定義のされ方はさまざまであるため、一歩も二歩も引いて見る必要があるけれど、その「原的な」ところにおいて、見田宗介は<市民社会>を次のようにも見ている。
…<市民社会>とは、原的に孤独なものたちが孤独ではないもののように互いに社交することをとおして、原的に孤独ではないものを孤独なものとして排斥する、そのような社会性の水準である。…
見田宗介『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2012年
この記述は『著作集』における「定本解題」に載せられている(このような角度から見田宗介が<市民社会>を語っているところは、今のぼくの記憶のなかにはない)。
<市民社会>をこのような「社会性の水準」として捉える見方は興味深いものである。
ちなみに、見田宗介は、<市民社会>を、人間たちの欲望の相剋性がいったん解き放たれた状態(※「共同態」は欲望の相剋性を規制し合う状態)というように捉えており、その解き放たれた欲望の相剋性が物象化されたさまざまな制度を幾重にも産み出してゆくシステムであると捉えている(『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、『現代社会の存立構造』筑摩書房)。
<市民社会>はその意味で両義的であり、解放の側面と抑圧の側面をともにもっている。
この社会性の水準においては、その力学において、「あかるい表層」における社交のなかに排除の力をもってしまうというのである。
このような「奇妙な世界」でどのように生き、また「奇妙な世界」をどのようにきりひらいていくことができるのかを、見田宗介は「欲望の相乗性」の論理を透徹することで示していくのだけれど、ぼくたち一人一人の生と現実の社会には、幾重にも幾重にも、生きることの経験のうちにのりこえていかなければならない問題と課題が、はるか彼方までひろがる濃霧のようによこたわっている。