「経済発展」ということを、経済成長率だけではなく、もっと広く捉える視点と実践を提供しつづけてきた経済学者アマルティア・セン。
「冷静な頭脳と暖かい心」をもつ経済学者と語られ、彼の影響は経済学・厚生経済学にかぎらず、哲学や思想にまでおよぶ。
インドに生まれたアマルティア・センは、数々の理論を、その内側に立って論理を徹底することで、新たな地平をひらいてきた。
アマルティア・センはノーベル経済学賞を受賞した後にも、しずかな筆致だけれども、論理の透徹した著作を書き続けている。
その一つに『Identity and Violence: The Illusion of Destiny』(W.W. Norton & Company, 2006)という著作がある。
「アイデンティティと暴力」と題され、暴力が広がる世界における「アイデンティ」の狭窄化ともいうべき状況に焦点をあて、人が本来住んでいる世界における「複数のアイデンティティ」へとひらいていくところに、現代世界のハーモニー(調和)の希望を見出している。
The hope of harmony in the contemporary world lies to a great extent in a clearer understanding of the pluralities of human identity, and in the appreciation that they cut across each other and work against a sharp separation along one single hardened line of impenetrable division.
(現代世界における調和の希望は、かなりの程度、人間のアイデンティティの複数性に関するより明確な理解と、またそれらが相互に横断し、頑強な分断をつくる硬化したひとつの線に沿って存在するくっきりとした分離に立ち向かうことを認識することの内にある。)
Amartya Sen 『Identity and Violence: The Illusion of Destiny』(W.W. Norton & Company, 2006)(※和訳はブログ著者)
特定の、文化、文明、国、宗教などに狭窄されたアイデンティティをたずさえて、人間は争いを繰り返してきた一方で、だれもが、複数のアイデンティティをもちながら生きている。
人はさまざまなグループなどに属している。
センが例としてあげているように、一人の人が、まったく矛盾なく、アメリカ国籍、カリブ人、アフリカに先祖、キリスト教者、リベラル、女性、ベジタリアン、長距離ランナー、歴史学者、教師、小説家、フェミニストなどなどでありうる。
これらのそれぞれがその人にアイデンティティを与えるものであり、特定のどれかひとつがその人のアイデンティティとなるのではない。
実際に世界はますます、多様性を増している。
人びとのそれぞれのアイデンティティということにおいて、それらをある特定の方向性に「統一」していくのではなく、逆に、その多様性・複数性をひらいていくところに「ハーモニー」が生まれるということは、チームや組織やコミュニティをかんがえていくときの、深い問いを提示してもいる。
メディア・アーティストなど多彩な顔をもつ落合陽一は、人間の「重層的な生」という視点から、「西洋的な個人」の、(日本における)乗り越えを提案している。
「選挙の投票」ということにおける、西洋個人主義の限界点をみつめつつ、「一番シンプルな答え」として、次のように語っている。
「個人」として判断することをやめればいいと僕は考えています。「僕個人にとって誰に投票するのがいいか」ではなく、重層的に「僕らにとって誰に投票すればいいのだろう」「僕の会社にとって、誰に投票するのが得なんだろう」「僕の学校にとって、誰に投票するのが得なんだろう」と考えたらいいのです。個人のためではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定すればいいのです。これを技術的に解決する余地が、人工知能による統計的判断や最適化にはあると考えています。…
落合陽一『日本再興戦略』幻冬舎、2018年
落合陽一は、西洋個人主義に合わない日本の状況を考えながら、(個人のアイデンティティの複数性ではなく)「自らの属するコミュニティの複数性」という言い方を採用しているけれど、人間の生の重層性とアイデンティの複数性への視点については、アマルティア・センと同型である。
ぼくたちは、このような「多様性・複数性」を日々生きているし、そこを起点としながら、いろいろと始めることができる。
精神科医のR・D・レインは「アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのこと」と言ったが、はたしてじぶんの物語・ストーリーは多様性・複数性に充たされているかと、かんがえてみることができる。
じぶんのアイデンティティの複数性に気づき、ひろげ、複数性のそれぞれの生を生きてゆくこと。
それだけでも、じぶんの生も、そして世界のあり方も、「景色」が変わっていくだろうと、ぼくは思う。