「芸と人柄」(見田宗介)というエッセイの視点。- 評価の基軸としての「芸」と「人柄」。 / by Jun Nakajima

「芸と人柄」ということについて、社会学者の見田宗介は、1969年に興味深いエッセイを新聞で発表している(見田宗介『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)。

スターの人気というものが、世代によって「選択の基準」そのものが異なるという現象を、ある放送局がおこなった調査から抽出している。

その調査によると、年配の層は、俳優や歌手をその「芸」を基軸として評価するのに対し、若い層は、スターの「パーソナリティ(人柄)」を基軸として評価しているということである。

当時の若い層は、歌や演技などの芸とは別に、歌手や俳優などが「どんな人」なのか、どのような「生き方」をしているのかということを知り、「人柄」における、かっこよさや率直さ、親しみやすさなどを、評価の軸としていたということである。

 

「パーソナリティ(人柄)」を基軸として評価される傾向は、1969年以降、そしてほぼ50年が経過した今も、変わることがないように思われる。

むしろ、情報技術の発展とともに、情報の窓が有名人たちのプライベートへとさらに深くさしこまれるなかで、その人物の全体性がさらに問われるようになってきている。

また、このことは有名人に限られたことではなく、ビジネスの分野でも同様の傾向がひろがり、「商品」だけではなく、会社や組織の「ブランド」の全体性が問われるようになっている。

 

見田宗介は当時、次のように分析的なコメントを書いている。

 

 古い時代のファンたちもスターの「人間」を問わぬわけではなかった。だがそれは、人生をかけた精進の結果としての「芸」にこそ結晶し、しぼりこまれて表現されるべきものであった。その生き方がホンモノかニセモノかを証す最終的決済が「芸」にほかならなかった。今や基準は逆転し、歌や演技がホンモノか否かを定める文脈として、大衆はスターの「人間」を問う。それはそもそも歌手や俳優が、その芸によって、自己の生き方の最終的な決済を大衆に問うというだけの、気迫の芸を失ったからかもしれない。

見田宗介『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年

 

今の時代の文脈のなかに、このコメントを落として視てみたとき、そこにはどのような風景が見えてくるだろうか。

歌や演劇などではないけれど今の時代において「職人技」が脚光をあびることの背景として、見田宗介が当時推測していたように、自己の生き方の結晶された「気迫の芸」がますます失われているのかもしれない。

だからこそ、「職人技」はぼくたちの心をうつ。

また、そのようにかんがえていると、歌や演技においても、生き方が凝縮されたような「気迫の芸」がやはり存在していることにも気づかされる。

そうして<芸ーーー人柄>という、それぞれを両端とする線分があるとして視てみると、その線分上にさまざまにプロットできるような仕方で、アーティストは存在している。

 

他方で、このようなスペクトラムを崩すような仕方で、のりこえていってしまうような人たちもいる。

例えば、生き方という<芸>を追求し、これまでの定義や固定観念を書き換えていく人たち。

そのような自由な<芸の人>たちが、世界の風景に、風穴をあけてゆく。