野口晴哉にとっての「教育」。- 野口晴哉の「潜在意識教育」。 / by Jun Nakajima

整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)は、専門外である「教育」について、整体協会で講座として語ってきた。

その記録が、野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)の書となり、まとめられている。

野口晴哉の名著『治療の書』とは異なる文体で書かれた『潜在意識教育』も、読めば読むほどに、そこにひろがる世界の深さに圧倒されてしまう。

四十数年にわたる指導の経験が、この世界に奥ゆきを与えている。

 

野口晴哉の語る「教育」とは、「意識以前の心の在り方を方向づける方法」としての教育である。

野口晴哉は、著書『潜在意識教育』の「序」で、このことに触れている。

 

 私は…同じような教育を受けながらみな異なったことを考えたりするのは、教育を受け入れる意識以前の心の方向によるのであり、人間は意識で考えているようには行えず、咄嗟の際に本当のことがヒョッコリ出てしまうのは、意識以前の心によって為されるからであるということを知っている。…

野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年

 

教育のことを考えさせるようになった「理由」を、野口晴哉は、「お互いに自分の子供は選べないから」であると書いている。

結婚相手や友人などは選べるけれども、子供とか親とかを選ぶことはできない。

そのように、「選べない宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法」として、教育の方法を考えようと、野口晴哉はこの本のもととなった講座で、ことばを届けてきたのだ。

 

 親は子供をよりよく育てるとかで、自分の理想を託したり、自分に都合のよいようなことを上手に押しつけたりしてそれを教育だと言うが、子供の方は教育の必要を感じていないばかりか、植木や盆栽みたいに親の勝手な形に整えられることは迷惑である。それ故中には反感を抱き反対の方向へ走る欲求すら持つようになる。それが実現できなければ、反抗として他のいろいろのことに逆らうことが生じ、時にその実現の衝動に駆られることさえある。…お互いに選べない、選りどれないという宿命のためである。どちらの罪でもない。それ故教育の専門家でない私が教育のことを語るのである。選べない、選りどれないその宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法として、意識以前の心の在り方や方向を教育する方法を考えようというのである。

野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年

 

このように、野口晴哉は、本書の「序」で、「教育」ということ、教育を語る理由、めざす方向性を明示している。

これだけの文章のなかにも、多くのことを教えられ、かんがえさせられる。

講座の記録としてのこの書は、子供が読むものではないだろうから、「大人」に向けられているものだ。

対象は「親」である者ばかりでなく、「大人」全般であると、ぼくは思う。

子供を持たなくても、大人として子供にかかわることがあるであろうし、なによりも、「意識以前の心の在り方」という、だれにとっても大切なことに向けられているからである。

実際に、野口晴哉も、「親ー子」という書き方より、「大人ー子供」という語り口で書いており、その基礎には「人間」が土台としてきっちりとおかれている。

さらに、どんな「大人」も、「子供」という時期を通過してきたのであり、本書で語られる「子供」に<じぶんの中の子供>を重ねあわせながら、読むことができる。

それは心理学の知見がいろいろな仕方で語るところでもある。

そのように読んでゆくことで、大人としての<じぶん>をきりひらいていくことができるのであり、それが「楽しく生くる道」の方法でもあるところに、野口晴哉の「教育」はあるように、ぼくは思う。