整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)は、専門ではない領域の「教育」にふみこみ、「意識以前の心の在り方を方向づける方法」としての教育を、ぼくたちに残してくれている。
整体協会で行なった講座が、野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)としてまとめられている。
1966年の著書だけれど、その内容は古くなるどころか、今という時代だからこそ、ぼくたちの心と身体に響くものである。
この本のなかに、「“と思い込む”こと」という、固定観念にかんする経験と考察が展開されるところがある。
固定観念というのは、自分ひとりでいつの間にか“と思い込んで”しまうことである。…郵便ポストを幽霊に間違えるようなことも時にはある。大人でもそうなのだから、子供が“と思い込んで”しまうということがあると、子供は意識で判断することが大人よりも弱いだけに、その考えが直接に深く潜在意識に入ってくる。潜在意識に入ってしまうと、その考えに支配される割合が子供は大人よりも大きい。…子供が親から悪いとか不良だとかいうように言われたら、どうなるだろうか。一番信頼している親がそういうように観る。教師がそういうように観る。子供にとっては否が応でも自分は劣等児だと思い込むより他はない。一旦“と思い込む”と、今度は自分でよくなろうと努力しながら、逆に“と思い込んだ”心の映像の方が濃くなってくる。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「郵便ポスト」ではないけれど、小さい頃、夜道を歩いていて、空き地にある鉄塔のようなものが幽霊に思えて、びくびくしていたことがぼくにはある。
そうではないと意識では言うのだけれど、いつ通っても、それが幽霊のように見えてしまう体験だ。
少なくない人たちが似たような体験をもっているだろうし、また大抵の人たちが、多かれ少なかれ、子供の頃に“と思い込んだ”固定観念を、心の映像として色濃く持ったままに「大人」になっていく。
どこかで読んだ(聞いた)話では、小さい頃に「醜い」と親に言われた女の子が、大人になって世界的なスーパーモデルになっても、じぶんのことを「醜い」と思ってしまっていたりする。
野口晴哉は、“と思い込んだ”固定観念は、いつでも意志の力よりも強く、努力しても覆すことがなかなか容易ではないという。
“と思い込んだ”固定観念が、その観念を意志や理性で否定しようとする力よりも強いというのだ。
だから、意志で観念を覆そうとするのではなく、少しズラした仕方で、野口晴哉は子供を解き放ったときのことを書いている(※前掲書)。
あるとき、整体協会に通っている子供のなかに、脳膜炎をやったために普通に扱えない子供がいたという。
野口晴哉は、子供の親に、好きな勉強や家でやることを尋ねると、「他のことはみな駄目だけれども、機械類をいじることが好きで、壊しては組み立てている」と応答が返ってくる。
それに対し、子供のお兄さんは壊したものを組み立てられるかと尋ねると「組み立てられない」、さらに子供のお父さんは組み立てられるかと尋ねると「組み立てられない」という返答が、立て続けに返ってくる。
…そこで本人に向かって、「では、君はどうか」と言うと、「組み立てられる」と言う。「では君はお父さんよりも、兄さんよりも、そういう力はあるんだな」と、私がそれだけ言ったら急に元気になって、それから他の勉強も標準以上になった。親の方は頚を治してもらったから頭が治ったのだと言うがそうではない。その子供が劣等感に埋まっていた中に、一つの光を与えたからである。そういう光を与えるためにこう言ったのだと親に説明したならば、きっと親はそれを子供にもう一回言って聞かせる。そうしたらおそらくはそうはならないだろうと思う。観念というものは、意志で努力すると別の方向に行ってしまう。何気なしにそう認めたことが効いたのである。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「では君はお父さんよりも、兄さんよりも、そういう力はあるんだな」という言葉だけであるけれど、その言葉が子供に「一つの光」を与える。
簡単なようでありながら、野口晴哉が見ているように、「何気なしにそう認めたこと」に効力があったものと思われ、そのスタンスは子供の心の機微が見えないと、ぼくたちの内からは自然と出てこない。
子供の「問題」が脳膜炎にあると思い、また治ったのは頚を治してもらったからと見てとる親には、取ることのできないスタンスであるように思われる。
子供の固定観念をほどいていくことが語られているのだけれど、大人の固定観念をほどいていくことが大切になってくる。
野口晴哉の考察と実践は、極めて明晰であり、「生きる」ということに徹底的に寄り添っている。
それが、野口の言う「全生」ということとつながってくるのだけれど、そのことはまた別のブログで書こうと思う。