河合隼雄の著書『おはなし おはなし』(朝日文庫、2008年)は、1992年から1年にかけて新聞紙上で連載されたエッセイをとりまとめられたものである。
心理学者・心理療法家である河合隼雄の書くものは時代を超えるようなものでありながら、新聞紙上ということもあり、時代を反映させた内容もあり、ぼくは当時の日本や世界を思い出しながら、またそこに生きていたじぶんを思いながら、読んだ。
このエッセイのなかに、「自己実現」ということが置かれている。
1990年代初頭に行われた日本臨床心理士会の全国大会の公開公演で、東京大学教授(当時)の村上陽一郎が「本当の私」という話をし、そして河合隼雄自身は「自己実現再考」という話をしたことの、ダイジェスト版である。
臨床家たちが悩みなどの相談を受けているうちに、ただ悩みを解決するだけでなく、「自己実現」ということが大切であると考え始め、「自己実現」という言葉も一般化してきていたなかでの、「自己実現再考」である。
河合隼雄も指摘するように、言葉が一般化することの負の側面として、そこに誤解がつきまとうこと、またそれにまどわされる人も出てくることがあり、「自己実現」もこの言葉の一般化の罠にはまっている。
言葉の一般化には、そのように特定の仕方で解釈したり、言葉が方向づけたりする欲求・欲望をもつ身体たちが存在している。
そのような言葉の一般化の罠をときほぐし、「自己実現」を、もう一度捉え直すことを目的とした講演である。
「自己」を実現する、というと、ともかく「自分のやりたいこと」をできる限りすること、そして、それは幸福感に満ちたものなどと思う人がいる。「自己実現を目標にして努力している」とか、「自己実現を達成した」などと言う人さえ出てくる。しかし、「自己実現」というのはそんななまやさしいことではない。
実現しようとする「自己」とはいったい何なのだろうか。奥底に存在して「実現」を迫ってくるものは、混沌そのものと言っていいほどつかみどころのないものなのだ。…
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
このつかみどころのないものは、じぶんの意識で簡単にはコントロールできるものではないし、この社会で生きていくなかで出世やお金もうけなどの一般の評価に寄り添いすぎると、賞賛は得ても、「自己実現」の道筋からははずれてくるかもしれないと、河合隼雄は書いている。
河合隼雄が素材として挙げているのは、夏目漱石の著作『道草』。
主人公である中年の健三は、大学教授という「本職」をやろうとしつつ、ごたごたにもまきこまれ、「道草」ばかりさせられているように思っているが、この「道草」こそが、高い次元から見ると、自己実現の道となっている。
そのように河合隼雄はこの作品を読んでいる。
明確な目標があってそれに到達するなんてものではなく、生きていることそのままが自己実現の過程であり、その過程にこそ意味があるのだ。従って、よそ目には「道草」に見えるかも知れないが、それが自己実現の過程になっている、と考えられる。…
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
ここで河合隼雄は、大切なことにふれている。
第1に、明確な目標を超えてゆくようなところに「自己実現」があること、第2に、生きていることの過程そのものが「自己実現」の過程であり、そこに意味が凝縮されてあること、さらに第3に、よそ目には「道草」に見えるかもしれないこと、である。
そして、「自己実現の過程になっている」という表現をしている。
自己実現を「する」のではなく、そのような過程に「なっている」というように、言葉を丁寧においている。
生きていることの過程を生きつくしながら、自己実現の過程に「なっている」ということに、自己実現の本質があると、ぼくは思う。
そんなことを思いつつ、きっちりと読んだことがない夏目漱石『道草』を読んでみようと思う。
それにしても、夏目漱石『道草』のなかに「自己実現」のテーマを見出す河合隼雄の慧眼に、ぼくは心を動かされる。