「25秒早く出発した日本の電車」のニュースを、日本の外から見て。- 「時間の比較社会学」(真木悠介)の視点と共に。 / by Jun Nakajima

先日BBCのアプリでニュースを読んでいたら、「Japanese train departs 25 second early - again」(BBC News)という見出しの記事に出くわした。

日本の鉄道会社が、電車が25秒早く駅を出発したこと(数ヶ月の内に同様のケースとして2件目)について謝罪したというニュースだ。

記事に書かれているとおり、電車が(極度に)時間通りに運行されることにおいて、日本の列車は高い評価を得ている。

しかし、25秒というように秒刻みで動く社会の「ニュース性」ということが、日本という社会の特異性を示してもいる。

日本に住んでいると、そのような電車があたかも「あたりまえ」のように生活する一方で、ひとたび、日本の外に出ると、そのことが「あたりまえではないこと」として、見えてくる。

アジアのいろいろなところを旅し、ぼくはこれら双方の視点で、「時間」をかんがえてきた。

 

社会学者の真木悠介(=見田宗介)は、1970年代にメキシコに住んでいた折に、日本で電車が1時間ほどおくれたことから暴動がおきたことを報じるメキシコの新聞を見て、次のように書いている。

 

…それは必ずしも先天的な「民族性」云々の問題ではなく、「みんな生活がかかっている」のだ。精緻なシステムの破綻するときに一挙に裂け目を噴出するそのエネルギーは、分刻みに追われる時間に生活がかけられている社会構造が、平常はみえないところに抑制し、たくわえられているいらだちの情動のようなもののすごさを思い知らされる。「1日に2度とおる」というバスを朝から待つようなくらしの中で、“緊急用件”の無限連鎖のシステムとしての<近代>のうわさがとおい狂気のように伝わってくる。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店

 

日本における「時間どおり」はとてもすごいものだと思う一方で、さすがに、「25秒」に「みんなの生活がかかっている」システムと生活は行き過ぎだと、日本の外にいながら、ぼくは見つめる。

海外に駐在する駐在員の人たちが「ぶつかる」問題に、出勤などにおける「時間」の問題があるけれど、その問題の詳細はさておき、「時間感覚」の違いが、このようなニュースにも見てとれるように思う。

 

真木悠介は、日本とメキシコの「間」に置かれながら、時間はたんに費用(コスト)にすぎない<近代>の世界と、メキシコなどのいなかの市場で売り手と買い手のはてしないかけひきに1日を暮らす人たちの世界をかんがえている。

 

…インディオたちにとって、時間はどんな時間でもそれ自体人生であるようにみえる。バスを待つ時間は近代人にとって、最小限にきりつめられるべき無意味な余白か、本をよむこと(doing!)などに有効に活用されるべき資源だ。インディオたちはどんな時間も等価に充実していることを知っているから、待つときは待つことのうちに現実に存在してしまう。彼らが関心をもっているのは時間を活用することではなく、時間を生きることだ。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店

 

どちらがよい・悪いということではなく、ぼくたちが「あたりまえ」としている日常を、「あたりまえではないこと」として照射する視点を投じている。

真木悠介はこの問題意識を熟成させながら、後年、名著『時間の比較社会学』を書いている。

近代がもたらした「光の巨大」を豊饒に享受しながら、近代の「闇の巨大」を乗り越えてゆくところに生き方をひらいていくうえで、とても大きな課題が提示されてもいる。

「時間」ということを通じて、現在と未来に目を向けることは、ぼくたちの「生きる」という経験の芯へと、ぼくたちを導いていく。