野口晴哉(1911-1976)の著書『潜在意識教育』(全生社、1966年)は、かぎりない知恵が詰まった本である。
「精神集中法」ということの文脈で、「人間の力」を取り出していくことについて、整体を通じてからだを知り尽くす野口晴哉がふれているところがある。
数学や理科が苦手な人たちの能力(推理判断の力)を引き出していくという話の中で、次のように野口晴哉は語る。
人間の力というものは、取り出そうと思えば、どういう方向からでも取り出せるものである。ただそれを意識から取り出して一生懸命勉強するとか、眠いのを我慢して、水をかぶって勉強するとかいうことをやったのでは取り出せない。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
ここで、野口晴哉は「子どもたちの勉強」に、教師がどのようにかかわっていくのかを語っているけれど、その冒頭は次のようにはじまっている。
今の教師のように宿題をたくさん出さないと不安だということは、それだけ自分のやっていることに自信がないのだといえる。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
この観察の切り口は、ふつう、思いもよらない(少なくとも、ぼくは、はっとさせられた)。
「宿題の多さ」が、不安に起しているとしたら、また、その不安が教えることの自信のなさからきているとしたら、宿題は誰にとっての何のためだろうということになる。
野口晴哉は、そこに、次のような方向性を提示している。
…絶え間なく勉強させて、更に勉強しようとする意欲を喚び起こそうとしたってそれは無理で、緊張を破る時間があって初めてその緊張は続く。どこで緊張を打ち切り、どういうように興味を持たせるかという興味の誘導法、どのように理想をうちたて、それに向かって希望を持たせるかという希望の持続法、それを先生方は研究すべきである。そういう道を開拓しないで努力だけさせようとすることは、心を殺しておいて勉強することを強いることで、ちょうど、エンジンに砂が入っているまま自動車を走らせようとするようなものである。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「興味の誘導法」と「希望の持続法」。
これら、「興味」と「希望」は、子どもたちにとって、また子どもたちだけにかぎらず大人たちにとっても、ほんとうに大切なものだと、ぼくは思う。
「宿題」という、方法によっては心を殺してしまう勉強の仕方から、「興味」と「希望」という地平へと、野口晴哉は一気に視界をひらく。
さらに、本のなかでは、時計の音を聞く訓練や呼吸法など、具体的な方法と根拠も提示している。
このように書きながら、20世紀の近代化の進展においては、大量生産や効率性といった社会の主旋律のなかで、心や興味や希望などはまったく脇に追いやられてきたものでもあることを、ぼくはかんがえる。
そう知りながらも、子どもたちに接する現場の人たちの一部が、野口晴哉のように、やむにやまれず、声を発し、実践をひろげてきたのだろう。
そして、時代は、経済のグローバリゼーションのなかに、近代化の完成形をみるところまできて、はじめて、心や興味や希望などがスポットライトを浴びるようになる。
見方を変えれば、時代が、野口晴哉などの言葉や実戦に追いついてきたのだともいえる。
社会も世間も経済も、気ままに変わっていくなかで、ぼくたちはじぶんの中に、<信頼するじぶん>をもっておくこと。
野口晴哉は、そのために、今でも、ぼくたちに(少なくともぼくに)語りかけてくれる。
「興味」と「希望」は、ぼくたちの「人間の力」を取り出すための、扉のパスワードである。