香港の暑い日に、以前の「香港国際空港」であった「啓徳(カイタック)空港」の跡地を訪れる。
啓徳空港は、20世紀の香港の歴史をかけぬけてきた空港でもある。
1998年に閉港され、跡地は、現在では「啓徳クルーズ・ターミナル」となっている。
ぼくが初めて香港を旅したのは、1995年の夏のことであった。
成田空港からユナイテッド航空にのって、当時はイギリス領であった香港の地に、ぼくは降り立った。
中国への返還の2年前のことで、当時は、まだ啓徳空港が使われていた。
ぼくにとっては、初めての空の旅であったし、初めて降り立った海外の空港であった。
この旅の前年に、ぼくは中国を旅していたけれど、行きも帰りも、いずれもフェリーの旅であった。
そういうことで、啓徳空港は、ぼくにとって思い出深い場所であり、20年以上が経過して、ぼくはその跡地をふみしめることにした。
九龍湾と呼ばれる駅から、ミニバスにのって、10分ほどで、「啓徳クルーズ・ターミナル」に行くことができる。
クルーズ・ターミナルの細長い施設が、跡地に、悠然と建てられている。
ミニバスで跡地の道のりを確かめながら、こんな小さな場所に空港があったことを、ふたたび感じさせられる。
啓徳空港は、滑走路はひとつで、市街地につらなる場所に位置し、着陸がむずかしい場所であったことを、ぼくは啓徳空港に着陸しながら/着陸して、知ることになる。
1995年、ユナイテッド航空の窓から香港の夜のネオンを間近に見ながら、機体が大きく旋回しながら、まるでジェットコースターのように滑走路に降り立っていったのだけれど、着陸と同時に沸き起こった、乗客たちの歓声と拍手に、ぼくは啓徳空港というものを知らされることになったのだ。
今もYouTubeなどの動画で啓徳空港の様子を見ることができるけれど、なかなかスリリングな着陸を、ぼくたちは映像で確認することができる。
タイミング的なものか、静まりかえった「啓徳クルーズ・ターミナル」を歩きながら、かつての啓徳空港のイメージが、ぼくのなかで重なってくる。
かつての啓徳空港の名残は、クルーズ・ターミナルの細長の形態にしか見られないくらいだけれど、何もない跡地にだって、ぼくたちは「歴史」を見ることができる。
日本にいるときには、城跡など、ただ草むらしかないような跡地に、ぼくは古き戦国の世を見ることだってできたのだ。
啓徳空港には20年以上前に「実際に」来たのであり、ぼくはありありとしたイメージの断片を呼び起こしながら、そこに「過去」を見ることができる。
ただし、ぼくの記憶のなかには、啓徳空港の空港内の記憶はかなり薄れている。
滑走路に降り立ったところの次に来る記憶は、空港のバス停で、香港の街に出るバスに乗るときのことだ。
宿も決めておらず、街の名前もまったく知らなかったぼくは、夜10時頃の空港のバス停で、西洋人のバックパッカーたちが乗るバスに乗り込んだのであった。
そんな、夜の空港のバス停が、ぼくの記憶に残っている。
「空港」という場所は、いつだって、ぼくたちにとって特別な場所となりうる。
人が、出発する場所であり、帰ってくる場所である。
あるいは、新しく降り立つ場所であり、次なる場所に向かう中継場所である。
現実の場所としてそうありながら、また、ぼくたちの「物語」や「想像力」が、飛び立っていくところでもある。
啓徳空港の跡地から、ぼくはどこに飛び立っていこうとしているのだろうか。