男女の「差別」をのりこえるとき、論理的に、二つの方向性があることを、社会学者の見田宗介は書いている(見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)。
ひとつは、「女(男)である前に、わたしは人間です」というように、<みんなが同じ>という方向性。
ひとつは、「女といっても一人一人違う、男も一人一人違う」というように、<みんなが違う>という方向性。
日本の社会は、ひとつめの方向性、つまり<みんなが同じ>という「同質化」の方向性を、社会を駆動する原理のひとつとして握りしめているようなところがあるけれど、時代の変遷のなかで、<みんなが違う>という方向性に、個人も社会も向かっている局面を、ぼくたちは見ることができる。
見田宗介自身は「異質なものの呼応と交響、というあり方」に惹かれるとし、<みんなが違う>ということに得心がいくという。
ぼくも、<みんなが違う>という方向に共鳴する。
見田宗介(真木悠介)は別の著書で、「自我の起原」を人間という形態をとる以前の地層にまで遡って探求するなかで、「性の起原」を扱っている。
進化生物学者のマーグリス(1938-2011)たちによると、「性」とは「二つ以上の源からの遺伝子が組み変わること」であること、また、脊椎動物の世界では性といえば自分たちの生殖に伴う性を考えがちだけれど「生きものの五つの大グループのうち四つまでは性と生殖は関係がない」ということに、見田宗介(真木悠介)は焦点をあわせながら、つぎのように書いている。
男/女という2つの性しかないということが特異な形で、<n個の性>が一般型だと、マーグリス/セーガンはいう。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
<n個の性>ということは、性ということが無限にひらかれているということである。
もちろん、ぼくは、ここでいう一般型としての<n個の性>を、上述した<みんなが違う>ということの直接の根拠とするわけではない。
ただし、人間中心主義ではなく、ひろい眼(また、深い眼)で世界を見渡すと、生物学的な「男/女という2つの性」という見方は「あたりまえではない」こととして、立ち上がってくるのである。
見田宗介(真木悠介)の「自我の起原」の探求は、(その明晰で、緻密な論理展開をここでは一気に飛ばしてしまうけれど)その最後に、ぼくたちの<個体>の「非決定=脱根拠性」を見ている。
ぼくたちの<個体>は、その起原から見てくると、生成子(遺伝子)の再生産の機構として決定されてはいないし、それ自体自己目的化するようにも決定されてはいない。
…<個体>のテレオノミーは非一義的であり、重層的に非決定である。<私は何のために生きるか>という問いへの答えは、<個体>のこのような起原に由来する非決定=脱根拠性、あるいは重層・交錯根拠性のために、やがて人間の<文化>をとおしての選択が、ほとんど際限もないまでに多様であるように開かれている。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
この際限もないままの多様性のなかに、<みんなが違う>という方向性が、無限にひらかれてもいると、ぼくはかんがえる。
ところで、見田宗介は、「一人一人が違う」(<みんなが違う>)という言い方は依然として近代主義者的であるとし、「その都度に違う」という方向を指し示している。
見田宗介は「差異化は…個体のアイデンティティをも脱解する」(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)と書くにとどめ、議論が面白くなりすぎるからと、これ以上はこのポイントには触れていない。
しかし、別著『宮沢賢治』で、<わたくしといふ現象>としての自我の探求から、つぎのようにかんがえることができる。
<近代的自我>をそれがあたかも確固たる「モノ」のように、凝固した実体としてとらえるのではなく、「わたくしといふ現象」(宮沢賢治)として、つまり「その都度に違う」ように現象するものとして「自我」や「自己」をとらえると、脱解された個体のアイデンティティは<その都度に違う>である。
なお、作家である平野啓一郎が提唱する「分人主義」という見方も、<その都度に違う>という方向性に呼応している。