ここ香港のショッピングモールで、「キャプテン翼」に出会う。
ワールドカップの時期にあわせられたであろう、「キャプテン翼」をモチーフとしたイベントだ。
「キャプテン翼」は、1980年代に/から日本で人気を博したサッカー漫画である。
連載開始から35年以上も経過する漫画が、ここ香港でも、その存在感を放っている。
香港の人に「日本のどこのご出身ですか?」と聞かれたら、「静岡という県で、キャプテン翼と同じですよ」と答えることができる。
それにしても、ぼくが子供の頃「はまっていた」この漫画に、こうして出会うのは、とても不思議な気持ちがする。
そんな不思議な気持ちを抱きながら、子供の頃のぼくにとって「キャプテン翼」の存在は、とても大きかったのだと、あらためてかんがえてしまう。
ぼくは「キャプテン翼」に惹かれてサッカーを始めたりしたわけではない。
でも、香港で「キャプテン翼」に出会って、昔のことを思い出していたら、ぼくは「大空翼」という存在にあこがれていたんだという記憶がよみがえってくる。
漫画を読み、テレビで観て、またときにはサッカーボールを蹴りながら、ぼくは「大空翼」になりたかったんだという記憶。
そして、漫画という世界に、生きるということの大切なことを学んでもいたのだと、今になって思う。
大空翼がもつ「ボールは友達」という信条に、直接的に、あるいは間接的に影響を受けた。
それは、「モノ」や「道具」にたいする態度、距離感のようなものを、ぼくのなかに生成させたのだ。
また、キャプテン翼の登場人物の小さいフィギアを手に入れて、サッカー場の全体を俯瞰しながら、試合運びを想像したりして遊んでいたことも、場の<全体を見る眼>を養ってくれたのかもしれない。
そして、なにより、<夢を追う>ということにおいて、ぼくは大空翼に学んだのだと思う。
ぼくはときおり、今をよりよく生きるために、「昔のじぶん」(今のじぶんのなかに生きている昔の「じぶん」)を見つめ直すワークをみずからやったりするけれど、「大空翼」の存在は忘れていたことに気づかされる。
それが漫画であったからかもしれないけれど、逆に漫画の人物だからこそ、「現実」を超えたところに飛び立つような存在だからこそ、ぼくたち(子供たち)に与えてくれるものがあるのかもしれない。
ところで、昨年2017年、BBCニュースを読んでいたら、内戦の続くシリアの難民の子供たちに、「キャプテン翼」の漫画が届けられているという記事を見つけて、驚きと歓びを覚えたことも、この機会にぼくは思い出す。
日本に留学していたシリア人の方が、何かできないかと、協力を得ながら、「キャプテン翼」のアラビア語版を作成し、それが子供たちに届けられたという。
子供の頃、ぼくがキャプテン翼に学び、楽しみ、夢を抱いたように、今も、世界の子供たちが「何か」を得ている。
そんな諸々のことを、香港のショッピングモールで「キャプテン翼」に出会って、かんがえる。
それにしても、「キャプテン翼」がこれだけ時空を超えて愛されつづける、その<普遍性>はどこにあるのだろうかと、ぼくの「分析理性」が作動する。