社会学者の見田宗介は、「自由(liberty)」ということを理論的に考えるための「歴史的な範例」として、1945年の日本の敗戦直前の沖縄戦を奇跡的に生き残った一人の女性の証言を挙げている(「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号)。
よく知られているように、当時は「ひめゆり」隊などとして、防衛の最前線に動員されていた女子学生たちがいた。
その中で奇跡的に生き残った一人の女性の2015年90才近くになっての証言によると、米軍の猛攻により敗走するほかのなくなった日本軍から足手まといとなった彼女たちは、「各自判断で行動せよ」と、突然に「自由」を言い渡されたのだという。
外は米軍の砲弾が降り注ぐ状況下で、「どこに行けばいいのか、ご指示下さい」と再度聞こうとする女子学生たちに対し、「何度言ったら分かるんだ。おまえたちは自由なんだ」と言って、日本軍はどこかに立ち去ったという。
この「歴史的な範例」を挙げながら、見田宗介は、はたして女子学生たちは自由であったのだろうか、また自由とは何だろうかと、考えている。
…自由であるということはどこに行ってもよいということである。けれどもこれだけでは現実的に自由であるということにはならない。どこかに行けば幸福の可能性があるということ。「希望」があるということでなければ、現実的、実際的に自由であるということにはならない。自由には二つの前提がある。第一に、「どこにでも行ける」ということ。第二に、どこかに行けば、幸福の可能性がある。「希望」があるということである。第一は自由の、抽象的、形式的な条件である。第二は自由の、現実的、実質的な条件である。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号
この「自由の二つの前提」は、「自由」ということにかんする、とても大切なことを教えてくれている。
「自由」というと、西洋的な個人主義の思考の枠組みでは、「自由と責任」として、「個人」のことが語られる。
しかし、見田宗介の挙げる、現実的、実質的な「自由の条件」は、幸福の可能性や希望がある<どこか>を前提としなければならないとしている。
それは、「個人のこと」を超えた条件である。
見田宗介のこの文章、また写真家である亀山亮の文章(「沖縄戦「集団自決」慟哭の新証言」『文藝春秋』2018年9月号)を読み、当時の沖縄戦のことを想像し、その内実に圧倒されながら、「自由」ということを考える。
現実は、言葉や観念などまったくふっとばしてしまうほどのものであったことを承知で、それでも、歴史が獲得してきた、人間の/個人の「自由」ということは、この世界/これからの世界において、より明確に捉えておくべきことであると、ぼくは思う。