「自由」ということを語ることは、なかなか難しい。
その難しさは、さしあたり、二つの方向からくるように思う。
ひとつは、その「抽象性」からくるもので、もうひとつは、その「具体性」からくるものである。
抽象的に語られるときにも、いろいろな仕方で語られる。
よく知られるルソーでさえ、ルソーという人物から一般的に想像されるであろう「自由」とは異なる仕方、語っている。
…人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
また「自由」を抽象的な議論で追いつめてゆくと、あまりにも観念的なものになってしまう。
逆に、具体的に語ればよいかというとそう簡単ではなく、具体性は、言葉を語る人たち、あるいは受けとる人たちの経験の多様性のなかで、あまりにも多様に(ときに深い感情をともなって)語られる/受け取られるため、議論がなかなかかみあわない。
そんなわけで、「自由」を語ることは、実は難しかったりする。
そのようななかで、人間の個としての「自由」ということを、人間の「自我の起原」において明晰に論じる真木悠介(見田宗介)の論考に、ぼくは魅かれる。
『自我の起原』(岩波書店、1993年)において最終章で提示される「テレオノミーの開放系」ということについて、真木悠介(見田宗介)は別のところで、その主旨をつぎのように書いている。
…<テレオノミーの開放系>とは…、人間の<自我>の脱目的性ということである。…生命世界の中で唯一人間の<自我>だけが、最初はこの個体(「自分」)自身を自己=目的化することをとおして、生成子の再生産という鉄の目的性から解放され、しかしそうなると個体は無目的のものとなるから、自己自身の絶対化(エゴイズム)からさえも自由な、どのような生きる目的をももつことができる存在となる。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』青土社、2016年9月号
ここで「生成子」とは「遺伝子」のことであり、人間が「自分」をもつということは、生命の再生産から「自由」になり、個体としては「どのような目的も」もつことができるようになる。
どのような他者たちもぼくたち個人が生きることの目的を決定しないし、どのような他者たちもぼくたち個人の生きることの目的を決定するということ、つまり人は個として<自由>である。
個人としてどんな目的をもつこともできるし、どんな目的ももたないこともできる。
よく「人生に目的はあるのか?」ということが、生きることの目的性を論じるなかで、問いとして立てられたりするけれども、この問いにたいしては、上で見たように、人間の自我の「脱目的性」ということを最初の土台として応えることができる。
つまり、人生に目的をもつこともできるし、人生に目的をもたないこともできる。
また、人生の目的をもつ際にも、どんな目的をももつこともできる。
人間の自我の、この<テレオノミーの開放系>という、きわめて明晰な視点をはじめて知り、理解したとき、ぼくはじぶんの心が解き放たれるように感じたものだ。
そして、「自由」ということをかんがえるときに、やはり、そこを出発点として、かんがえることにしている。