「表現」について。真木悠介の表現論。- <あらわす>ことを、そぎ落とすこと。 / by Jun Nakajima

作家のダニエル・ピンクは誰もが「セールス」をしているのだとして『To Sell is Human』という本を書いたけれど、その意味の次元と同じところで語れば、人は誰もが「表現」していると言える。

毎日、至るところで、人は言葉を語り、書き、また言葉とは違う形式で表現する。

表現を手段とし、あるいは表現を作品や形あるものにおとしてゆくこともある。

 

じぶんが語り、書く言葉はどこか「ほんとう」ではないものと感じられることもある。

なにかを表現しようと思えば思うほどに、表現する言葉に違和感を感じてしまうこともある。

 

表現と<生きること>とのあいだには、緊張がある。
(語ることは、いくぶんか、裏切りである。)

真木悠介「伝言」『旅のノートから』岩波書店、1994年

 

詩人である山尾三省の著書の序文に、真木悠介はこのように書いている。

ことあるごとに、ぼくが立ち戻ってくる文章である。

詩人であり百姓であった山尾三省の「生」とその詩に向かいながら、「語ることが裏切りでないような言葉。生を裏切らない表現というものがあるか?」と、真木悠介は問いながら、つぎのように書いている。

 

 表現とは、あらわす、ということである。このように理解されている。そして表現が、あらわす、ということであるかぎり、それはいつでも、いくぶんか、生を裏切る。しかし表現は、あらわれる、ということであることもできる。表現が<あらわす>ということでなく、<あらわれる>ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる。…
 創ることでなく、創られること。
 <あらわす>ことを、そぎ落とすこと。<あらわれる>ことに向かって、純化すること。洗われるように現れることばに向かって、降りてゆくこと。降りそそぐことばの海に立ちつくすこと。

真木悠介「伝言」『旅のノートから』岩波書店、1994年

 

「創られながら、創ること」は、真木悠介の思想(生き方)における、大切な軸のひとつである。

それは、近代的自我や近代芸術における「表現」や「創造」における「あらわすこと」や「つくること」という主体のあり方に対して、根源的な視点の転換である。

じぶん(「自分」という確固としたモノ)の中にあるものを外側に向けて「あらわす」、というふうに捉えられる仕方を転回させているのだ。

 

「表現が<あらわす>ということでなく、<あらわれる>ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる」と、真木悠介が書くとき、それはけっして言葉遊びなどではない。

ここでの対象人物である山尾三省はもとより、宮沢賢治などが降り立ってゆく<降り注ぐことばの海>に、真木悠介は実際に深く触れてきている(※また、真木悠介の言葉自体も<あらわれる>ところに向かって純化されてきている)。

真木悠介は別のところで「詩人とは、ある現代の詩人のいうように、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>として定義される…」(『自我の起原』岩波書店)と書いている。

<自我と世界との境目がはっきりしない>場所は、そこから言葉を<あらわす>ような場所ではなく、そこから言葉が<あらわれる>ような場所である。

 

このような言葉たちに触れながら、ぼくは「表現」ということをかんがえる。