本をひらいて、ページを数ページ繰ってゆくだけで、ぼくにとって、いつもなんらかの「気づき」や洞察をあたえてくれるような本を書く人たちがいる。
そのような人たちは、例えば、真木悠介(見田宗介)であり、野口晴哉であり、河合隼雄である。
また、解剖学者の養老孟司もそのひとりである。
「脳化社会」というコンセプトは、人間や自然や社会を視るうえでの切り口のひとつとして、20年以上前からぼくの思考の「道具箱」にきっちりとおさめられ、適宜使われているものである。
「男と女はどこが違うか」(『男の見方 女の見方』PHP文庫)を論じる養老孟司の視点も、あいかわらず、鋭い。
養老孟司は、この問題に、「身体的な違い」という中立点を設けることできりこむ。
身体という「中立の観点」を設定することで、「男と女」という、文学的、社会的、個人的、自然科学的な主題として際限のないトピックを「まとめる」ことを企図する。
考え方や感じ方の違う男女の違いは「脳のはたらきの違い」であり、それはつまり「身体の違い」となるわけだ。
「男と女の違い」を説明してゆく養老孟司は、それがもともと、二つの点において「面倒」であることを述べている。
- 男女の違いは「自然に生じた」ものだが、自然の困る点は「ものごとがきれいに割り切れない」こと
- 「自然は割り切れる」という偏見の存在
身体的な男女の違いのように簡単に割り切れそうなこともそれほど簡単ではなく、また男女ははっきり分かれているという偏見がすでにあること。
「自然のものごとがきれいに割り切れない」例として養老孟司が挙げるのは、生死のことである。
何をもって死とするかは実はそれほど明確ではなく、心臓死をもって死とすることで、「わかりやすい」ものとなる。
それは、人間がそのように「決める」ことによってである。
…社会はそうした人間の取り決めでできている。したがって社会はわかりやすい。それをわかりにくくしているのは、むしろ自然である。ところが現代社会は、自然の持っているそのわかりにくさを、自然を「排除する」ことで、すっかり隠してしまった。
だから、現代人は、ほとんど社会の論理、すなわち人工物の論理しか使っていない。この人工物論理は、ものごとをきれいに割り切る。しかし、その論理をそのまま自然にあてはめると、しばしば使いものにならない。…
自然はじつは割り切れない。だから、男女の差も、生死と同様、絶対的なものではないのである。
養老孟司・長谷川眞理子『男の見方 女の見方』PHP文庫
こうしてはじまる「自然を割り切らない」養老孟司講義は、気づきと洞察に充ちている。
なお、「男女の違い」においても、そこに<自然を排除する>思考たちがあることはまた別の、しかし密接に関連する大きなトピックとしてあることを書いておきたい。
ところで、男女の身体的な違いを説明してゆくなかで、上述の「自然は割り切れる」という偏見に加え、男性中心主義のよる偏見、さらには「機能中心主義」という偏見を、養老孟司はあぶりだしている。
挙げられる例は「骨盤」のトピックで、多くの教科書が男性の骨盤を基準として捉え、また「女の骨盤をお産に適合した形」と書く。
後者は、その「はたらき」(機能)を重視するからである。
…しかし、形を考えるときに、はたらきばかり考えると、わかりはいいのだが、しばしば誤解を生じる。「なんのために」という説明は、人間が作ったものについては、よく当てはまる。なぜなら、人間は、ものをある目的で作り出すからである。しかし、自然の存在については、そう簡単に「目的」がわかるとはかぎらない。そんな目的など、まったくないかもしれないのである。
養老孟司・長谷川眞理子『男の見方 女の見方』PHP文庫
人間が「脳化社会」にすっぽりと入り込んでしまうときに陥ってしまいがちな思考の癖や偏見を、「自然」を置いてみることで、相対化している。
「思考の道具箱」に入れておきたい視点であると、ぼくは思う。