突然の雨が、香港の空から降ってくる。
降り始めたと思ったら、すぐさま、雨脚が強くなる。
それにしても、ここ数日にわたって香港の空気を覆っているよごれを、きれいにしてくれそうな雨だ。
雨脚はさらに強くなってきた。
帰宅途中のぼくは、雨傘をもっておらず、ひとまず屋根のあるところをさがして、かけこんだ。
しばらくしても、雨脚は変わらず、いっそう強い風も吹いてくる。
どうにかして、濡れずに(あまり濡れずに)建物のなかに入ろうと思考を巡らす。
香港は、建物と建物の「つながり」が便利だ。
日本などとは異なり、建物と建物、建物とマンション、マンションと駅などが、それなりにつながっている。
雨が降っても、つながりがよければ、多くの人たちは雨傘なしで家に着くことができる。
思考を巡らしたけれども、やはり濡れるなと思い、ベンチに腰掛けたまま、様子見をすることにした。
それにしても、そんなに「急ぐ」必要はあるのだろうかという想念がわく。
特にその後の予定が入っているわけではない。
香港の強い雨脚は、待っていれば弱くなっていくのだから、ゆっくりと待てばよいのだとも思う。
二つのことを思う。
ひとつは、雨を疎外する仕方で「都市・都会」が成立し、自立してきたこと。
雨の度に人が足を止めていたら、この「現代社会」はまわってゆかない。
「脳化社会」(養老孟司)は、人間にコントロールされた環境をつくり、コントロールされた環境に人は生きる。
「自然」はそこでは排除されてゆく。
もうひとつは、雨が止むのを待つという時間を無駄な時間だと思ってしまう、「時間」の機制。
雨をゆっくりと楽しもう、というようにはすぐには感じられない。
そんな時間があるのであれば、別の目的に「有効」に使われるべきだという衝迫。
もちろん、今ではスマートフォンがあるから、雨を待ちながら、「待っている」ということさえも気にせずに、「何かをする」という行動に時間を当てることはできる。
それは方法のひとつだけれども、「雨を眺めて楽しむ」という選択肢はそこには入っていない。
降りそそぐ雨を眺めて楽しむ、という選択肢はどこに追いやられてしまったのだろう。
突然の雨が降ってきて、雨宿りをしながら、また小雨になって家に帰ってきたときに、そんなことを思う。
ときには、突然の雨に足を止めて、その降りそそぐ雨をゆっくりと楽しむこともあってもいい。
それが何か特別に「有益」なものをもたらせなくても。
ただ、降りそそぐ雨に、心をひたしてゆくだけでよいのだと思う。