香港で、子供たちに向けられた「早く」の言葉を耳にしながら。- 「早く、早く」の生活速度にかんする真木悠介の考察。 / by Jun Nakajima

香港でぼくの住んでいるところの界隈は家族が多く、子供たちに向けられた「早くしなさい」という意味の言葉を耳にすることがある。

そのような言葉におされるように動く子供たちの身体を、ぼくは目にする。

「速さ」「早い」という行動形式に、社会のぜんたいがかけられている香港。

そのすごさに圧倒される一方で、複雑な気持ちもぼくの中では湧いてくる。

 

今ではよく覚えていないけれども、ぼくが小さい頃(1980代頃)も「早く」という言葉が、家庭や学校などの生活空間に満ちていたのかもしれないと思う。

「時間」についてそれを正面から見据えた名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)において、真木悠介は、現代社会における「早く」の時間衝迫に関連して、つぎのように書いている。

 

 ある音楽家の文章によると、下手でも早く弾いた曲と、上手にゆっくり弾いた曲とを聞かせると、母親の「早く、早く」のシャワーの中で育てあげられた現代の日本の子供は、一様に早く弾いた演奏の方を「上手」と言うという。時間衝迫が芸術のスタイルをも規定せずにはおかないことを、われわれはたとえば映画の表現史にみることができる。…

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981年

 

ここで語られる「現代の日本の子供」は、さしあたり著書が書かれた1970代から1980年代の頃を指しているようだけれども、それは「ゆとり世代」などの表層的な区分を超える仕方で、「現代」という時代の子供たちであるとみることができる。

真木悠介は1990年前半に行われた対談においても、「日本の母親が自分の子どもに一日のうちにいちばんたくさん言うことば」として「早く」という言葉があると指摘し、それが、言うほうにも言われるほうにも、「呼吸が浅くなる」という影響をおよぼすだろうことを語っている(真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること 身体のドラマトゥルギー』太郎次郎社)。

真木悠介が「時間」について比較社会学的な考察をしていた当時、ぼくはそこで語られる「現代の日本の子供」のうちのひとりであった。

 

「一定の生活速度は一定の生活の型を要求する」(真木悠介)ように、現代の日本における生活速度の中で「一定の生活の型」を体得していったのだろう。

その「生活の型」を身体に刻みながら、ぼくは、この現代の社会での「速さ」に対して、その流れを泳ぐための「型」を手にしてきた。

けれども、それと同時に、何か大切なものを、いくぶんか忘れてしまったようにも思う。

だから、そのようなことに気づきを得たときから、呼吸をととのえながら、生きるという時間の経験のぜんたいを取り戻そうとしてきたのであり、まだいろいろに試しているところである。

 

こんなことだから、「早く」という言葉のシャワーを聞くと、いろいろとかんがえさせられるのである。

それにしても、「速さ」「早い」にかけられた香港の行動形式・様式には、いつもいつも、おどろかされる。

香港に来る前、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたことも、そこと香港との「ギャップ」をいっそう体感させた理由であったかもしれない。