香港で、「空気のよごれ」の中でかんがえながら。- そこに未来の「可能性」を見つめる。 / by Jun Nakajima

ここのところ、香港の空気・大気のよごれが目にもあきらかで、ニュースでもよく取り上げられている。

雨風が洗い流してくれることもあるけれど、ときおりやってくる「突然の雨」(ブログ「香港で、「突然の雨」をやりすごしながら。- 降りそそぐ雨のもとで思うこと。」)も、今のところまだ効果はないようだ。

この文章を書いているときも、香港政府環境局のアプリ「HK AQHI 」App(AQHI=Air Quality Health Index)では、香港のほぼ全域にわたって、スケール「10+」(Low1からSerious10、そして10+)を示している。

 

当面できる対策としては、まずは屋外での活動を減らすこと。

 なるべく、ぼくはそうする。 

アドバイスに従うというよりは、じぶんの身体がよく知っているといったほうが適切だ。

部屋では、どの程度効果があるかわからないけれども、空気洗浄機をまわしてみる。

また、空気のよごれは、人の「呼吸」も浅くさせるから、じぶんの「呼吸」にもときおり気を向けながら、身体をととのえる。

 

当面の対策をとりながら、「恒久的な対策」をかんがえてみる。

もちろん、対策はいろいろな「次元」においてかんがえられ、政策レベルなどはここでは立ち入らず、もう少し「恒久」の視野を広げておきたい。

「環境・公害」の問題は、現代社会(とりわけ消費化社会)の問題である。

いわゆる「先進地域」と呼ばれる国々が、環境問題や公害を外部に「域外転移」させる仕方で、ひとまず問題を見えなくさせてゆく側面がある。

香港の空気・大気汚染は中国本土の産業地帯を原因のひとつとしていると言われるけれども、それは産業地帯だけの問題ではなく、そこで作られる製品に支えられている地球全体の問題(またそこに住むひとりひとりの問題)である。

グローバル化はこの「域外転移」の果てに、この地球の球体という<域内>の限界に気づき、その行先の転回を要請されているのが「現代」である。

目に見える「問題」は、そんなことを、より痛切にかんがえさせる契機となる。

 

ぼくは、この「問題」をより深い次元において教えてくれた名著、見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)をひらく。

現代社会の「光の巨大/闇の巨大」をともにひとつの視界におさめながら、「情報」と「消費」というコンセプトをラディカルに転回させることで、未来にひらかれる社会を描いている。

その魅力性のひとつは、それが、「情報」と「消費」を制約してゆくのではなく、それらの原義の可能性をひらいてゆく仕方で未来の社会を構想していることである。

目の前にひろがる環境の中で、描かれる「未来の社会」構想を読みながら、その「可能性」を、未来にそして現在の至るところの行動やあり方の「芽」の中に、ぼくは見ている。