心理学者・心理療法家の河合隼雄は、心理学者カール・ユングの生涯を語る本(『ユングの生涯』)のなかで、弟子によって提唱された「ユング研究所」の設立に、ユング自身が当初反対であったことについて、書いている。
…彼はユング研究所をつくることに反対だったのである。ユングは、「個性化」ということを強調するように、個々人は自らの個性化の道を歩むべきであると考えていたので、研究所ができたりして、ユングの心理学が画一化されたり、マス・プロ化されることを極端に嫌っていたのである。
河合隼雄『ユングの生涯』第三文明社
のちに、ユング心理学を学びたい人たちの増加などの状況のなかで、いずれ研究所ができるのであれば自分が生きている間に自分の意見もいれて設立したいと、ユング自身が研究所設立を提案することになるが、当初は「個性化」ということを大切にして、その設立に反対していたことは注目しておきたいところだ。
この「個性化」というユングの言葉と概念について、河合隼雄は本の最後に、「完全性と全体性」という節のなかで、興味深いことを書いている。
「人格の全体性」という、人間の心の光と影を全体として包含することを、ユングは思い至ることになるが、この「全体性」ということにたいして「完全性」というものを対置させながら、「個性化」について、河合隼雄は書いている。
完全性は欠点を排除することによって達成されると考えられるが、全体性はむしろ欠点を受け容れることによって、そこに生じる統合を目標としようとする。この際、完全性は多くの人にとって共通の目標を提供するが、全体性の方は、ある個人がその影の部分を受け容れることによって達成されるものであるために、そこには各人の個性が強く関係してきて、万人共通の目標やモデルを与えてくれない。ユングが個性化という言葉を用いるのもこのためである。
河合隼雄『ユングの生涯』第三文明社
こうして、「単純なモデルとしてのユングの否定」が、本来的な意味でユングの考えに従うことになると、河合隼雄は指摘している。
「ユング心理学」ということは、「学としての体系」としてあるように見えるけれども、その本質において、体系として凝固させる力をほどいてゆく力学をそのうちに内包している。
それは、個性化の過程で、つまり「個人が生きる」ということのなかで、生成していく<理論>のようなものだ。
そして、このように語る「河合隼雄」自身の教えるところも、個人の生のなかで生成してゆくところへ、開け放たれてある。
だから、ユングも河合隼雄も、彼らが書くもの/語るもののなかにに人生の「答え」があるように読もうとしたときに、すでにして方向性を間違うことになる。
このように開け放たれてあるスタイルとして思い起こすのは、人間の生き方の発掘をめざした、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房)である。
「あとがき」に記されるように、この本が追求したのは、「生活のうちに内化し、しかしけっして溶解してしまうのではなく、生き方にたえずあらたな霊感を与えつづけるような具体的な生成力をもった骨髄としての思想、生きられたイメージをとおして論理を展開する思想」であった。
人はときとして、生き方の「答え」を求めようとする。
そして、納得のできる「答え」がないときに失望し、あるいは、それは間違っているのではないかと批判する。
逆に、生き方を伝える側も、「こうあるべきだ」と語ろうとすることがある。
これらは、いずれも、「完全性」の思考である。
「共通」の目標であるものが、「万人の」目標として置き換えられてしまい、個性化を阻害する思考であり、行動だ。
このような完全性のなかに凝り固まる「思想・理論」ではなく、「具体的な生成力をもった骨髄としての思想・理論」が、ぼくたちそれぞれの個性化の過程で、生きてくる。
ユングも、河合隼雄も、そして真木悠介も、ぼくにそのようなことを教えてくれながら、またぼく自身の「個性化」を絶えず問いつづけてくるのだ。