香港の「サイズを活用する」ことのひとつとして(電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17 「香港のサイズ」を活用する。」)、「コンサート」を楽しむことがある。
香港の「コンサート会場」は小さいから、大物ミュージシャンであっても、ぼくたちは間近に音楽を楽しむことができる。
Coldplayも、Jason Mrazも、Bryan Adamsも、Elton Johnも、The Beach Boysも、そして、Bob Dylanだって。
2018年8月4日、香港のビクトリア湾に面する「Hong Kong Convention and Exhibition Centre」。
ボブ・ディラン(Bob Dylan)と彼のバンドが、舞台に立った。
久しぶりに来るこのコンサート会場はやはり小さな会場で、一番後ろのゾーンにいるぼくの位置からも、肉眼で舞台を普通に見ることができる。
そんな会場に入って舞台を見渡してみて、「スクリーン」がないことに気づく。
普通のコンサートではこの会場でも「スクリーン」がつくのだけれども、そのスクリーンがなく、さすがに顔の表情までは見ることができない。
スクリーンがないことを含め、舞台はきわめて素朴で、エンターテインメント性を極力にそぎおとしているようにも見えるのだ。
やがて、開演時間がやってきて、少し遅れて、演奏がはじまった。
香港のコンサートでは時間通りに演奏がはじまることはとても少ないためか、多くの人たちがまだ席についていないなか、ボブ・ディランのあの独特の声音が会場にひびきはじめる。
これまでいろいろなコンサートを観てきたけれど、ボブ・ディランのコンサートは、なかなか独特で、なかなか捉えどころのないものであった。
ギターのチューニングのズレ、音をうちこむリズムのズレ、楽器の音量バランスのズレなど、演奏や楽器の音がときに「ズレ」ているように感じる。
また、ボブ・ディランもバンドメンバーも、2時間近くのコンサートで、曲の間に一言もしゃべることはなかった。
そのような「捉えどころのない」演奏やコンサートの全体に最初はとまどったのであったけれど、とても不思議なのは、その空間には、やはり(あるいは、だからこそ)「ボブ・ディラン」が浮かびあがってくるのである。
ボブ・ディランの「歌」自体が、<ことばを伝えること>であって、それ以外に「何」が必要だろうかとも思う。
歌自体に、ことばが尽くされているのだと見ることもできる(とは言っても、ぼくは、英語の歌詞はほとんど聞き取ることができなかったけれど)。
また、ボブ・ディランの声音を主旋律として、楽器の音たちはそのどこか不器用な声音に不器用に合わさることで、主旋律である声の響きがいっそう照らし出されるのでだ。
こうして「ボブ・ディランの世界」が顕現してくる。
歌われることのなかった名曲「Blowin’ in the Wind」と「Like a Rolling Stone」はやはり聴きたかったけれど、演奏される曲たちはコンサートの全体感のなかで選ばれているから、ぼくはその全体感を尊重したい。
このように、なかなか「捉えどころのない」コンサートであったのだけれども、ほかに「捉えどころのない」風景として、聴きに来ている人たちがあった。
会場全体に、若い人たちが目立ったのだ。
サンタナが香港に来たときは圧倒的にサンタナと同年代の人たちが多かったのだけれども、ボブ・ディラン(77歳)はちがった。
ぼくの席の周りも、まだ20代くらいの人たちで埋まっていたのである。
彼ら・彼女たちにとって「ボブ・ディラン」の歌や存在はどのようなものなのだろうかと、ぼくは興味深く思う。
このような「捉えどころのない」コンサートの余韻が、ぼくのなかに、不思議と、強く残っている。