加藤典洋が、社会学者である見田宗介に触発されて<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>を追い求めるなかで、現代において現れてきている「自由」の範型を、「コンティンジェントな自由」の範型として拾い上げている。
これまで人は欲望に突き動かされ、そこに浮かびあがる目標を達成すべく生きてきた。そしてそこにえられる感覚を自由の感覚と呼んできた。でも、いま現れてきているのは、欲望に自分自身動かされながらも、同時に、その欲望による駆動、あるいは承認願望による動機づけを、うっとうしく、不自由に感じるーひらたくいえば「マッチョ」に感じるー、重層的な生の自由の感覚ともいうべきものである。
わたしはそれをしたい。それをする。でもそれはけっして自分がそれを欲望しているからというのではない。少し違う。またこれを承認されたいからだといわれてしまうと、これも違う。違和感が残る。
それを何と呼べばよいか。
私は、これをこそ、コンティンジェントな自由な範型と呼んでみたい。そこに働いているのは、解放や大義に抗うように、欲望や承認願望に対しても抗う、これらの人を動かす力にコンティンジェントであろうとする意思であり、力である。
加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社、2014年
「コンティンジェント」とは、他の箇所で漢字で表されているとおり、「偶発的契機」「偶発性」である。
ふつう、人が自由を感じるのは「欲望をかなえる」ことによってであるが、加藤典洋はこの本で丁寧に取り出してきた「することも、しないこともできる」力能を導きにしながら、欲望との関係において「することも、しないこともできる」というコンティンジェントな関係性を、ここで見出している。
この「コンティンジェントな自由」ということは、確かに、今現れてきている自由の範型のように、ぼくには見える。
この自由の範型とは異なる範型として、加藤典洋は、束縛「からの自由」、また目標「への自由」ということを、時代の流れのなかに見ている。
- 束縛「からの自由」
- 目標「への自由」
- コンディンジェントな自由
身分制度や家制度などの束縛「からの自由」が切実に立ち上がる時代から、竹田青嗣が言うような「制限と努力と可能性との相関的意識」(制限と可能性のさなかで、努力と工夫によって達成する感覚)とあらわすことのできる目標「への自由」の時代へとうつってゆく。
もちろんそれらがそれぞれの時代におけるただひとつの自由などというわけではなく、時代を駆動する主旋律のようなものだ。
近代・現代の成長は、これらの自由を基礎として、あるいはそれら自由への欲望のもとに、駆動されてきたのだとも言える。
しかし、加藤典洋が目標「への自由」の違和感のさなかに今現れている自由として丁寧に取り出すのは、「コンティンジェントな自由」である。
それは、「することも、しないこともできる」力である。
この「コンティンジェントな自由」は、観念の問題ではなく、実際に他者のうちに、そしてぼくのうちに、現れてきているように、ぼくは思う。
この抽出はとても鋭いとぼくは思うし、また、これはこれからの<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>をささえうるもの(あるいは基幹となるもの)だと思う。
ところで、「することも、しないこともできる」力ということは、ノーベル経済学者アマルティア・センが提唱してきた「潜在能力(ケイパビリティ)アプローチ」につながるものであると、ぼくは見て取っている。
センが、経済成長に代わる評価指標としてこのアプローチを提唱し、実際に国連開発計画の報告書などで適用されてきたものである。
この「潜在能力アプローチ」の本質は<生き方の幅>ともいわれるように、ひろい視野で言えば「することも、しないこともできる」というスペクトラムにおける<幅>だ。
つまり、経済学で言われてきたような「効用」ではなく、<自由>ということを、評価指標としている。
<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>は、これらの思考と実践が、より自由な仕方でつながってゆくところに現れてくるだろうと、ぼくはかんがえている。