香港で、本と知の「力学の地図」をかんがえる。- 香港の書店の店頭の風景のなかで。 / by Jun Nakajima

香港の書店にときおり訪れて、「最近の動向」を追う。

どんな本が読まれて、どんな本が関心を集めているのか。

日本の書籍の「中国語訳」は、ここ香港の書店でも、あらゆるジャンルのものが並んでいる。

大きな書店ではなく、小さな書店でも、日本の書籍の中国語訳を結構見ることができる。

 

また、ここ1、2年のことだろうか、日本の書籍の「英語訳」も、心なしか増えたように感じる。

正確に調査をしたわけではないけれども、香港の書店の店頭に、日本の書籍の英語訳を見つけることができる。

これまで、店頭で目にする日本の書籍の英語訳と言えば、古典的な文学作品や村上春樹の作品であったのだけれども、そのジャンルの幅を少しづつ広げているようだ。

近藤麻理恵の片付けの著作はもちろんのこと、「片付け」や「ミニマリズム・ミニマリスト」系の他の著作も並ぶ。

また、岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』の英語版(『Courage to be Disliked』)なども目にすることができるのだ。

 

英語などの著作の日本語訳はつぎからつぎへと出版されているなかで、その逆(日本語の書籍の英語訳)を見たときに、その少なさということがある。

本と知の「力学の地図」のようなものを描くとしたら、そこにはアンバランスがある。

ちょうど読み終えた、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)のような作品が英語に訳されて、日本の外でも読まれるといいなと思ったりする。

けれども、このような著作が英語になるのは、まだいくつものハードルを飛び越えていかないといけなさそうだ。

出版社としては「売れる・売れない」の軸があるし、英語訳(のコストと労力)の問題もある。

 

さらに視野をひろげると、例えば、アジアの著作の日本語訳が多いというわけではなく、そこにもアンバランスがある。

ぼくもアジア圏の著作群を読むことができているかというと、あまり読めていない。

本と知の「力学の地図」が、ある意味で、ゆがんでいる。

飛躍するようだけれども、この「ゆがみ」と、この世界で起きていることの、さまざまな<ゆがみ>は、いろいろな回路を通じてつながっているように、ぼくは思う。

それらは、ぼくのなかの<ゆがみ>でもある。

香港の書店の店頭の風景のなかで、ぼくはそんなことを感じ、かんがえる。