「9・11」、つまり2001年9月11日、ニューヨーク「世界貿易センタービル」の同時多発テロと、それにつづく「報復」戦争への応答として、社会学者の見田宗介は、つぎのように書いた。
「関係の絶対性」という事実が、二千年前も現在も、最も困難な現実問題の基底にありつづけているということを、認識の出発点とするほかはないと思います。
見田宗介「二千年の黙示録」『社会学入門』(岩波新書、2006年)
「9・11」とそれにつづく戦争は、現代世界が最も困難な問題として抱えている「関係の絶対性」という問題を露呈したということある。
「二千年前も現在も」と書かれているのは、この問題が、たとえば、キリスト教の新約聖書のうちにも見出すことができるものであるからである。
見田宗介は宗教の問題を語ろうとしたわけではないし、ましてやキリスト教の問題というように書いたわけでもない。
ただ、「9・11」と一連の出来事を目の当たりにしながら、見田宗介が思い起こしていた2つの文書が、D・H・ロレンス『アポカリプス』と吉本隆明「マチウ書試論」という論考であり、それらが扱っているのが新約聖書であった。
「バビロンの都」(当時の世界帝国ローマ)、その都が倒れるさまを神話的形象で描く新約聖書「ヨハネの黙示録」は、不遇な階級、民族、地位にあるキリスト教徒のあいだで強い共感と支持を得てきたものだという(*より詳細な説明は前述の論考を参照されることをおすすめする)。
そして、この「バビロンの都」を「ニューヨーク」、また文脈を「イスラム原理主義」と置き換えてゆくと、現代にもつづく「問題」がみえてくることになる。
「関係の絶対性」という核心的な言葉を、見田宗介は吉本隆明の上記の論考から取り出している。
吉本隆明は、原始キリスト教の「苛烈な攻撃的パトスと、陰惨なまでの心理的憎悪感」を正当化するものとして、この「関係の絶対性」によるしかないと書いている。
「関係の絶対性」とは、簡易に言ってみれば、遠隔的に、媒介的に収奪し支配される関係、絶対的な敵対関係のことである。
圧倒的な軍事力と貨幣経済の力によって、「パビロンの都」の住人たちは、実際にどのような人たちであるかにかかわりなく(どんなに「いい人」であっても)、また見えにくい仕方(幾重にも間接化された関係のなか)で、「都」の外部を収奪し支配してしまう。
それはもちろん、ある意味「バビロンの都」の住人であるぼくの生をも、貫通しているものだ。
見田宗介は、「9・11」によって明るみにでたこの問題を、二千年の文明社会を支えてきた思想が解決できなかったものとして、「二千年の黙示録」として書いている。
2001年からすでに17年が過ぎた現代世界も、いまだ、この「関係の絶対性」の問題を解決できずにいる。
けれども、悲観的になることはない。
解決の糸口や萌芽、解決への情熱や試みは、いたるところに見られるのだと、ぼくは思う。