議論の「不毛なすれちがい」の原因のひとつ。- 「いかなる未来への変革を志しているのか…」(真木悠介)。 / by Jun Nakajima

先のブログ(「「未来構想」そのものを学ぶこと。- 真木悠介『人間解放の理論のために』(1971年)という本。」)にも書いたように、真木悠介(見田宗介)の『人間解放の理論のために』(筑摩書房、1971年)を読んでいて、17年ほど前に読んでいたときに「棒線をつけた文章」に行きあたる。

 運動論、組織論、変革主体論等に関する論争が、しばしば不毛にすれちがうのは、じつは論争の当事者たちが、そもそもいかなる未来への変革を志しているのか、その暗黙の価値がそもそも異なっており、あるいは(より多くのばあい)、それぞれの当事者自身の内部であやふやなままにおかれているからである。

真木悠介『人間解放の理論のために』(筑摩書房、1971年)

「いかなる未来をめざすのかー<目的の理論>」と題される節のなかで、このことが書かれている。

この文章自体はむずかしいことを言っていないし、読んでいて「納得」できるものである。

けれども、論争や議論のただなかの「当事者たち」にとって、このことを明瞭に理解することは、経験上、むずかしかったりする。


この箇所に棒線をふった当時、ぼくは「途上国の開発・発展」と「開発協力」を専門として研究していた。

ぼくの関心と思考は強い遠心力がはたらいていて、それらの領域におさまらなくなるのだけれども、そのことは、この膨大な研究領域においても同じであった。

しかし、真木悠介のこの言葉はぼくのなかに印象的に残り、「途上国の開発・発展」という領域の論争や議論においても「適用すること」ができるのではとかんがえたのであった。

「開発・発展」ということに託しながら、<いかなる未来への変革を志しているのか>という価値が、論者によって異なっていたり、あるいはあやふやなままにおかれているのではないか、ということ。

そもそも「開発・発展」とは何か、という価値の異なり、あるいは不明瞭さ。

このような問題意識を総体的にすすめることで、ぼくは修士論文「開発と自由~アマルティア・センを導きの糸に~」を書いたのであった。


その後も、論争や議論、また不毛な論争・議論のすれちがいのただなかで、<いかなる未来への変革を志しているのか>ということを見定めようとしたり、尋ねたりすることで、この視点はぼくのなかで生きつづけている。

個人の生も、組織も、また「人類」も、<いかなる未来への変革を志しているのか>という価値が、今ほど問われるときはそれほど訪れることはないという「時」におかれている。