「未来構想」そのものを学ぶこと。- 真木悠介『人間解放の理論のために』(1971年)という本。 / by Jun Nakajima

社会学者である見田宗介は、「世に容れられるということを一切期待しないという、古風な熱情を以て記された文章群」を「真木悠介」の筆名でしてきた。

その最初の著作は『人間解放の理論のために』(筑摩書房、1971)というものであった。

見田じしんが「今では読まれないほうがいいですが…」と批評家・思想家の加藤典洋に語っており、また2010年代前半に編まれた見田宗介著作集/真木悠介著作集からも外されている。

その理由は明確に語られていないが、『人間解放の理論のために』を実際に読んでみて推測するのは、抽象度の高い文章群、難解さ、語彙にときおり見られる時代性などである。

けれども、その問題意識と理論それ自体、そしてそれらを支えているにじみでる熱情(これは読み側にとって好き嫌いはあるだろう)は、今読んでも、ほんとうに多くのことを教えてくれる。

 

本のタイトルからはすぐに想像することはできないが、この本で正面から取り上げられているのは、「未来構想の理論」と「人間的欲求の理論」である。

これらのテーマは1960年代から1970年代にかけて切実なものとして書かれたのだけれども、それは「今だからこそ」、とりあげられるべきテーマたちでもあるように、ぼくは思う。

実際、見田宗介がこの本から45年以上経過した2018年に出版した『『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)は、これらのテーマが継承され、より一般読者向けに書かれている。

そして、ほんとうは、『人間解放の理論のために』というタイトルに含意されているように、見田宗介は、この問題・課題を、数十年や100年単位に限ることなく、その先をも念頭に入れながら、理論を展開している。

 

「人間の解放」という言葉としては硬質なテーマは、見田宗介が17歳のとき(1950年代)、将来の方向性と目的を熟慮しているなかで定められたものであることを、約60年後の2016年の論稿(見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号)のなかに書いている。

2日間の熟慮の際、最初に「候補」とされたテーマは、第一に「人類の幸福」、第二に「世界の革命」であったという。

見田じしん、今の時代ではこのようなことを考える人はいないだろうがと前置きをしている。

二つの候補がありながら、「幸福」という言葉のぬくぬく感、また「革命」という言葉の政治的な響きが好きになれずにいたところ、二日目に「人間の解放」という言葉が突然に閃いたという。

そして、1950年代から2016年までの60年間も、そしてこれからもし60年生きるとしても、一貫して「解放論」であると、見田宗介は書いている。

 

その志を真摯に、透明に貫いてきたところに、真木悠介の筆名で最初に書いた著書『人間解放の理論のために』が置かれているのを見ることができる(また、数々の名著も、その一貫性のなかに書かれてきたことを実感できる)。

その『人間解放の理論のために』の最初の章が「未来構想の理論」である。

未来(将来)をどうする/どうなるなどという議論の前に、「未来構想」そのものを、理論のまな板に置いている。

例えば「未来」というものの構造が問われ、明晰に論じられているのだ。

 

「今では読まれないほうがいいですが…」と見田じしんが語るこの本で展開される理論に、ぼくはしばらく深く降りていきたいと思う。

それにしても「今では読まれないほうがいいですが…」と言われると、余計に読みたくなるものである。