「視点」を変えれば、見え方は変わる。
「世界」で生きてゆくために、ぼくが心得にしているこの「考え方」そのものが、歴史的/地理的に条件づけられている。
思想家・武道家の内田樹は、このような考え方を「構造主義」と呼ばれる考え方として、平易に、しかし切れ味するどく説明している。
世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは四十年ほど前、1960年代のことです。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2004年)
「構造主義」という考え方は、『寝ながら学べる構造主義』のなかでも取り上げられている、構造主義の「四銃士」、社会史のフーコー、記号論のロラン・バルト、文化人類学のレヴィ=ストロース、精神分析のジャック・ラカンの業績が大きいと言われる。
大学のときにそれなりにきっちりと学んでおこうと思いながら、レヴィー=ストロースの『野生の思考』などをかじりながら、あれよあれよと時間が経過し、20年以上が経過してしまった。
けれども、この約20年、その大半を海外で生活しながら、「視点が変われば見え方は変わる」ということが、よりぼくのなかの深いところに、経験として刻印されてきたのだと思う。
そのことが、構造主義を学ぶことの土台をさらに強固にしてくれたようだ。
内田樹は、「構造主義」という考え方について、「ひとことで言ってしまえば」と、つぎのように書いている。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2004年)
この考え方は、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港で生活してきたぼくにとって、むしろ自明のことであるけれども、そのように考えること自体が、すでに「構造主義」の考え方の内にある。
つまり、ぼくの見方や感じ方や考え方は、歴史的/地理的な条件によって、基本的なところで決定されている。
ぼくの生きるという経験において、このタイミングで「構造主義」がやってきたことは、それなりに根拠と理由があるようだ。
それにしても、内田樹の著書『寝ながら学べる構造主義』は、「まえがき」に記されるように、「知らないこと」を軸に編成され、より根源的な問いに出会う確率が高いと内田樹が位置づける「入門書」のとおり、とてもよい入門書だ。
平易で理解しやすい文章と根源的な問いによって、書かれていることが、普段の生活(見ること、感じること、考えること)に接合しやすいように、ぼくは思う。
そして、この本を読んでいると、構造主義に関連する「原典」が無性に読みたくなるのだ。