「途上国 developing countries」と呼ばれる国、そしてその地域やコミュニティの発展・開発(development)を支援する「開発協力」や「国際協力」ということを学びはじめたのは、確か1997年、大学3年になったときであったと記憶している。
大学の授業のひとつに国際協力論のようなものがあって、実際に「途上国」での開発協力に携わってきている実務者による講義であった。
「現場」の話とあって、それはいっそう興味深く、当時のぼくには響いたのである。
関連書籍も読みはじめて「困ったこと」のひとつは、開発協力・国際協力を「善悪のものさし」ではかり、そのいずれかに偏りがちな議論がなされていたことである。
開発協力・国際協力を「まったくの美しき物語」として(だけ)描く論調があるかと思えば、他方で、開発協力・国際協力が途上国の現場において「負の遺産」を作り出してきているという論調がある。
「負の遺産」は、たとえば、日本のODA(政府開発協力)によるダム建設プロジェクトが、環境破壊などを引き起こしているといったものだ。
それぞれの論調がそれぞれの「見方」において「現実」を描き出しているのではあろうが、それぞれの論調が相容れない仕方で屹立している。
見田宗介の言葉を転用すれば、開発協力・国際協力の「光の巨大」の言説と、「闇の巨大」の言説が分裂してしまっているのであった。
後年、開発協力や国際協力を学びはじめたばかりの学生の方々と話していたときに思ったのは、このような論調にかなりの程度ひっぱられてしまっているということである。
つまり、書籍などで「負の遺産」などを目の当たりにした学生の方々は、その「純粋な心性」ですっかりその論調を取り込んでしまい、「罪的な」意識や考え方をもっていたのであった。
もちろん、開発協力・国際協力には、「光」の部分も、また「闇」の部分も、そのうちに宿しているし、帰結させてもいるのだと、ぼくは思う。
しかし、それらは、開発協力・国際協力ということだけに内在するものではない。
たとえば、巨視的に見れば、「現代社会」の理論という地平においても分裂している、「光の巨大」と「闇の巨大」の分裂でもある。
見田宗介はつぎのように書いている。
情報化/消費化社会の「光の巨大」に目を奪われる「現代社会」の華麗な諸理論は、環境、公害、資源、エネルギー、南北の飢餓や貧困の巨大な実在と、それがこの情報化/消費化社会のシステムの原理それ自体がその「臨界」に生成する問題系であることを正面から見ようとしない。反対に、現代世界の「闇の巨大」を告発する多くの理論は、この現代の情報化/消費化社会の、人間の社会の歴史の中での相対的な優位と魅力と、その未来に開かれてある原的な可能性とを見ようとしない。
見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)
開発協力・国際協力の論調の「分裂」を経験しながら、ぼくはこの文章(本)に出会い、開発協力・国際協力の「光」と「闇」とを統合するなかに描き、また実践されるものとしての方向性を、より明確に意識したのであったし、なによりも勇気づけられたのであった。
その後、大学院で修士論文を書き終える際に、光と闇の「統合理論」という更なる研究テーマが取りだされたのであったけれど、それから約16年が経過した今も、まだそこには至っていない。
しかし、それは、実際に「現場」に出ているなかで、プロジェクトの形成や実施、評価において、意識されていたことである。
この意識(配慮)されながらの実践のなかに、このテーマは、現実に生きてきたのだと言うこともできる。