将来に実現・達成したい「夢」をもつこと。そのような「夢」をもつことがよいのかわるいのか、必要なのか必要ではないのか。あるいは、夢をもつとしたら夢は大きいほうがいい、夢は小さくてもいい/小さいほうがいい。等々。「夢」をめぐって、人はいろいろに語ってきたし、語られている。
「夢」はシンプルなようでありながら、夢をめぐる議論はシンプルではないようだ。
また、じぶんの夢に向かって邁進する人もいれば、夢がなくて欠如感をいだく人もいる。夢を実現させた人がいれば、夢にやぶれる人もいる。夢をめぐる議論だけでなく、夢をめぐる現実も、多様だ。
「夢」をめぐる多様な見方や側面があることから、夢について「他者と語る」ことも、複雑になることもある。
たとえば、いわゆる発展途上国とよばれる場所を訪れた人たちが、現地で目を輝かせる子供たちに「将来の夢は何なの?」と尋ねることはどうなのか。先進産業地域の子供たちと異なり、将来の「機会」が限定されているなかで、そのような質問は酷ではないか、という見方がある。でも、そのような限定された機会を見事につかみ、道をひらいてゆく人たちもいる(「限定された機会」として現実を見ること自体が偏っている見方であるかもしれない)。
ぼくが思うに、「夢」はもってもいいし、もたなくてもいい。夢は大きくてもいいし、小さくてもいい。夢は実現できることもあれば、夢は実現できないこともあるけれど、いずれであってもいい。
でも、夢が語られたりする場面で敏感に察知したいのは、「夢」に託される「将来」ということ、また「将来」の功罪ということである。
「夢」という「将来」は、<現在>を豊饒にすることにおいて、活用され、楽しまれるものである。「将来のために…」という論理のなかで、この<現在>の生を抑圧し、犠牲にするものとして、使われてはならないと思う。
「結果オーライ」「終わりよければすべてよし」という論理は会話のなかで有効であるときもあるだろうけれど、その論理が語っていないのは「プロセス」である。「終わりよければすべてよし」は、プロセスを(「生きる」ということで言えば<現在の生>を)、問わないのだ。
社会学者の見田宗介は、著書『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)の補章「世界を変える二つの方法」のなかで、「二十世紀型革命の破綻」をふりかえったうえで、「新しい世界を創造する時の実践的な公準」として「positive、diverse、consummatory」を挙げている。
この3つ目の「consummatory」は、適切な日本語におきかえられないとして、見田宗介はことばの説明を加えている。
…consummatoryはinstrumental(手段的)の反対語である。手段の反対だから目的かというと、それはちがう。…<わたしの心は虹を見ると踊る>という時この虹は何かある未来の目的のために役に立つわけではない。つまり手段としての価値があるわけではない。かといって「目的」でもない。それはただ現在において、直接に「心が踊る」ものである。…コンサマトリーという公準は、「手段主義」という感覚に対置される。新しい世界をつくるための活動は、それ自体心が踊るものでなければならない。楽しいものでなければならない。その活動を生きたということが、それ自体として充実した、悔いのないものでなければならない。解放のための実践はそれ自体が解放でなければならない。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)
ここでは「夢」を語っているわけではないけれども、「将来のために…」という手段主義に対置するものとして「コンサマトリー」がおかれている。「その活動を生きたということが、それ自体として充実した、悔いのないもの」となる、<現在を生きる>ことが語られている。
3つの公準のどれもにぼくは全面的に賛同と共感をいだきながら、この「consummatory」の公準は、ぼくを捉えてやまない。それは、コンサマトリーと対置される「手段主義」ということが、20世紀に、社会という大きなコンテクストだけでなく、社会のすみずみ、個人の生にまでつらぬいてきたからである(もちろん、ぼく自身の生にもふりかかってきたものであった)。
こうして見てきて、「夢」ということに戻ると、もう一度、問うことができる。
夢に向かう活動自体が心踊るものでないような夢は、ほんとうにじぶんにとっての「夢」なのだろうか、と。