最近、「practical(プラクティカル・実用的・実際に役立つ…)」ということを考える。どれほどその精神が「近代(現代を含む)」を「ゆたかさ」へと推進し、あるいは人を戒めることばとして機能し、そして生活のすみずみにまでその領域をひろげてきたか、ということ。
けれども、その精神に「支配される」のではなく、味方にしながらも、ある意味、のりこえてゆくときであること。
「practical(プラクティカル・実用的・実際に役立つ…)」、つまり何かの役に立つ、将来に役立つ、という「考え方」や「生きかた」は、個人や集団の生活、社会を「目的」に向かって、合理的に編成してゆく。「役立たない」ものやことは、切り捨てられてゆく。
とても強力な考え方であり、生きかたである。たとえば(ある側面において見ると)、社会においては「経済成長」、企業においては「企業の成長・拡大」、家族や個人においては「収入の増大」ということを目的として、「役に立つ/役に立たない」という基準で、ものごとが編成されてゆく。
マックス・ウェーバーにふれながら、この「近代社会の原理」について、社会学者の見田宗介は書いている。
マックス・ウェーバーが正しく言うように、生のすみずみの領域までもの「合理化」、生産主義的、手段主義的な合理化(目的合理性)ということが近代社会の原理であるのは、近代社会が個人と個人、集団と集団、人間と自然との相克性(戦い)をその原理とする社会であるからである。
たとえば受験生は受験戦争に勝つために現在の生きる時間を、未来の目的のための「手段」と考えて、生活のすみずみまでも合理化し、自分で自分の自由を抑圧することがある。戦争が終結すれば、この「合理化圧力」は解除され、自由に<現在>の生を楽しむこともできる。これは近代から脱近代に至る歴史の局面の、分かりやすい理論モデルである。見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)
この「近代社会の原理」が、どれほど人間と社会を経済的にゆたかにしてきたのかは多く語る必要はないだろう。現在すでに、先進産業諸社会では、「すべての人びと」に、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」したとしても、そこには「富の余裕」がある。
「受験戦争」が終わると、受験生の「合理化圧力」が解除されるように、「経済戦争」が終わり(少なくとも様相を変質させ)、個人や集団や社会の「合理化圧力」は減じてくる。「脱近代」への歴史的局面、そのトランジションのなかに、現在ぼくたちは生きている。
「practical(プラクティカル・実用的・実際に役立つ…)」を「考える」ということは、近代社会の原理(目的合理性)が、「近代から脱近代に至る歴史の局面」にあって、見田宗介の指摘するように、「合理化圧力」が解除され、あるいは減圧してきている状況におかれているからでもある。
ジム・キャリーは、大学の卒業性に向けて、かつて、次のような言葉を贈った。
…Now fear is going to be a player in your life. You get to decide how much you could spend your whole life imagining ghosts, worrying about the pathway to the future but all there will ever be is what’s happening here in the decisions we make in this moment which are based in either love or fear. So many of us choose our path out of fear disguised as practicality. …
「さて、怖れはあなたの人生のプレイヤーになるでしょう。あなたは決めなければいけない。自分の人生のどのくらいを、ゴーストを想像し、未来につづく道を心配しながら過ごすのかということを。けれども、これから起きることのすべては、この瞬間におけるわたしたちの決断の中に起きていることなのである。つまり、愛に基礎をおく決断なのか、あるいは怖れに基礎をおく決断なのか。わたしたちの多くは、実用・実際(practicality)という姿に粉飾した怖れから、自分たちの道を選んでいるのです。」Jim Carrey “Full Speech: Jim Carrey’s Commencement Address at the 2014 MUM Graduation” ※日本語訳はブログ著者
わたしたちの多くは、実用・実際(practicality)という姿に粉飾した怖れから、自分たちの道を選んでいると、ジム・キャリーは語る。「怖れ」が「実用・実際(practicality)という姿に粉飾している」という視点は興味深い。
そのことは、マックス・ウェーバーにつなげるならば、「近代社会が個人と個人、集団と集団、人間と自然との相克性(戦い)をその原理とする社会」であり、相克性(戦い)のなかで、「怖れ」が発動されてゆくのだということである。
「実用・実際(practicality)という姿に粉飾した怖れ」をいだき、「将来役に立つ」からと、やりたいことを抑えて、お金になりそうな進学先や仕事を選ぶ。「文学なんかやっても、将来稼げないでしょ」といった「practicalityの声」をひたすら内面化してゆくなかで、<楽しさ>の感覚をうしなってゆく。
けれども、現在の近代から脱近代への歴史の局面、移行期(トランジション)において、「practicalityが主導する生きかた」と「楽しさが主導する生きかた」が、人それぞれによって、異なる濃度をもちながら拮抗している。
ぼくは、「楽しさが主導する生きかた」を選びたい。