養老孟司先生は、久石譲との対談のなかで、つぎのように語っている。
養老 …小川のせせらぎというのは、実は周囲の林が音を増幅しているんです。ただ水が流れているから聞こえるんじゃなくて、森林のさまざまな樹木なんかと共鳴することで強く聞こえてくる。…
養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)
「小川のせせらぎ」は、それが単一にひびくのではなく、<森林のさまざまな樹木と共鳴している>という音の風景は、まるで、目に見えるようでもあるし、共鳴し交響する音が聞こえてくるかのようでもある。
いつか、小川のせせらぎを耳にするときがきたら、ぼくは、そこに森林のさまざまな樹木たちとともに音を奏でている<音の風景>を感じることだろう。
これだけのことばでも、風景はいつもと違ってみえてくる。ことばという<情報>のもつ機能のひとつは、見えないものを見えるようにしてくれることである。
小川や樹木たちが森林という舞台で奏でる音を感じることは、それだけで人を充たしてくれるものがある。
これからの時代をささえ、基礎づけ、ひらいてゆくものとしての<幸福感受性>(見田宗介)をとぎすまし、もっとひろく感じ、もっとふかいところへ降り立っていきたい。じぶんが生きてゆくことの核心のところにとりもどしてゆきたい。
上に引用した箇所では、養老孟司は<幸福感受性>のことを語っているのではなく、<耳で聞く>ことと<目で見る>ことがズレることを、久石譲に語っている。「川が流れているから、音がする」のではなく、逆に、「音がするから、川があるんだな、とわかる」というように。
さらに、「目と耳の情報を統合する機能」ということを養老孟司は語っている。このことは、他の著作でもふれられていたりするが、言葉の基本には「時空」(時間と空間)があるということである。目が耳を理解するために「時間」という概念が必要であり、耳が目を理解するために「空間」という概念が必要という、興味深い観点だ。
そのことはさておき、このようなことが述べられているなかに、「小川のせせらぎというのは…」という話が、さっと入ってくる。
その、さっと、あるいはさらっとさしこまれた話のほうに、ぼくは惹かれたのであるが、このような話が日常に生きられているところに、養老孟司先生の感覚と思考の「確かさ」を、ぼくは感じることになる。
今回とりあげたトピックは、人にとってはなんでもないものだけれど、そのようななんでもないことを、とぎすまされてゆく<幸福感受性>が、まったく違った「風景」をぼくたちにさしだしてくれるのだと思う。