CNNのニュース(2019年1月9日)に、「Researchers debunk myth about Mona Lisa’s eyes」(研究者たちがモナ・リザの目についての神話を覆す)と題された記事を見つける。
ここでの「モナ・リザ」はもちろん、レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた肖像画である。
その記事では、ドイツにある大学の科学者たちの研究によると、モナ・リザは、実は、この絵画のモナ・リザを観るあなたの「右15度くらいのところ」(おそらく、あなたの右耳、あるいは肩の上)を見ているのだ、という。つまり、描かれた彼女はあなたを凝視しているように見えるけれども、そうではない、というのだ。
それにしても、「モナ・リザ」はほんとうに多くの人たちを魅了してきた。オリジナルだけでなく、いろいろなバージョンを含めて視聴者数をカウントしたら、きっと、とんでもない数字が出てくるだろう。
それから、ほんとうに多くの研究者たちの研究対象となってきた。研究者たちも多彩である。医師がモナ・リザを見て、モナ・リザは病にかかっている、と見て取ることもある。
「研究者」にかぎらず、モナ・リザを見る人それぞれの「専門」や「関心」をフィルターにして、モナ・リザがさまざまな様相であらわれるのだろう。
いろいろな見方と現れ方がありながら、モナ・リザの微笑と凝視は「何か」を考えさせたり、伝えたりするものがある。
ぼくの尊敬する整体の野口晴哉(1911-1976)が、モナ・リザについて書いている。「モナ・リザの肖像」と題され、『大絋小絋』というエッセイ集に収められている。
人間のどの女にも、こういう微笑はある。しかし見えない人もいる。
見える人は、どの人にも見る。この微笑が見えるか見えないかで、この世の中の美しさが大きく動く。
満たされて抑え、更に求むる動きーこれが見える人は、世のすべての動きに美しさを見ることであろう。
モナ・リザのこの微笑は開三種現象である。野口晴哉『大絋小絋』(全生社、1996年)
最後の文章のところで「開三種現象」と書かかれているのは、野口晴哉の「体癖」研究をもとに、モナ・リザの体癖を読みとって書かれているものと思われる。「体癖」とは、個人の身体運動がそれぞれに固有な「偏り」の運動に支えられているとし、一種から十二種までを分類している論である。それぞれの偏りが体ぜんたいの動きと連動してゆくさまを、野口晴哉はいろいろに研究し語っており、モナ・リザの微笑に「三種」(四種と共に左右型。体の運動が左右に偏る)の動きを見たのである。
それにしても、体を知り尽くした野口晴哉の巨大な知性を介して、モナ・リザの微笑が、とても簡潔に語られ、しかしいっそうの深みを帯びてくる。この微笑が「見える」人は「世のすべての動きに美しさ」を見ることだろう、とは、言っていることはわかっても、深みのある示唆である。
このように感覚する<感受性>を、じぶんがもちあわせているかどうか、心許なくなる。
「満たされて抑え、更に求むる動き」。この動きのなかに<美しさ>があらわれるのだと、野口晴哉は書いている。
このことを充分に「わかる」とは思わないけれど、ぼくは、野口晴哉の、この「モナ・リザ」論に、とてもひかれるのである。