「触ること・触覚」についてのメモ。<五感をとりもどす>こと。- 「KonMari Method」から、養老孟司、真木悠介まで。 / by Jun Nakajima

片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法のひとつに、片づけで「残すモノを選ぶ基準」として、<触ったときに、ときめくか>という方法/基準がある。

そもそも、片づけでは「捨てる」ことにフォーカスしてしまいがちななか、本来、片づけでは「捨てるモノ」よりも「残すモノ」を選ぶことが大切であるという認識をベースに、その基準を、触ったときの「ときめき」におくこと。

モノを触ったときに、じぶんの身体にどのような反応があるか。心が「ときめく」か、どうか。「KonMari Method」の要の部分である。

この方法を知ったときには「なるほど、いい方法であり、いい基準だなぁ」と思った。今回観たNetflixのリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』のシリーズ(シーズン1)でも、アメリカの家庭の人たちがこの部分をどのように捉え、実践しているかは、ぼくが見るポイントのひとつであった。

ぼくの関心のおきどころは、人間のもつ<触覚>ということにある。

触覚はもちろんのこと、<五感をとりもどす>ということは、ぼくが「生きる」ということにおいての中心的な課題のひとつとしてありつづけてきたからである。


リアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』を観ていたころに、ちょうど読んでいた解剖学者の養老孟司と作曲家の久石譲の対談で、養老孟司はつぎのように語っている。


 現代人は全体的に感覚が鈍ってきていますが、五感の中で今一番軽視されているのは「触覚」ですね。都市というのは、触ることを拒絶している傾向があってね。コンクリートの壁、触る気になります?…
 生コンの剥き出しの壁なんて耐えられないでしょう。それから、屋外の手すりを金属製にするなんていうのも、とんでもない話。陽があたっている時に触ったら火傷しそうで、寒い時に触ったら手がくっついてしまう。手すりというのは人間が手で触るためのものなのに、安全性、耐久性だけでものをつくるとそういうことになる。… 
 触ることを拒否している構造物の中にいたら、ますますからだが置き去りにされる。現代文化はそうやってどんどん感覚から離れていく。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


養老孟司はこのように<触覚>をとりあげている(なお、触覚をとりもどすことの一環として「木の文化」の復権を、養老孟司は考えている)。

「KonMari Method」の<触ったときに、ときめくか>という方法(基準)は、この<触覚>という感覚にきりこみ、そこから<歓び(joy)>の感覚をとりもどすことを、その核心としている。


<五感をとりもどす>を、ぼく自身が「明確に」関心をもちはじめたのは、18歳のときからアジアを旅し、ニュージーランドに住み、そしてそれらの体験をことば化してゆく過程のなかで、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年→ちくま学芸文庫、2003年)に出逢ったことがきっかけである。

『気流の鳴る音』のなかで、「われわれの文明はまずなによりも目の文明」であると真木悠介は述べながら、人間における<目の独裁>から感覚を解き放つことで、「世界」は違った仕方でぼくたちに現れることについて、書いている。


…<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。
 人間における<目の独裁>の確立は根拠のないことではない。目は独得の卓越性をもった器官だ。

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫


<目の独裁>の根拠にかかわることとして、真木悠介は「仏教における五根」の序列性を挙げている。仏教では五根を「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」というようにならべるが、この「配列」(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が、とても自然であるように思われる。

そのことを指摘したうえで、五感を通じた「対象との距離」という視点で、上の配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)は、「対象を知覚するにあたって主体自身が変わることの最も少なくてよい順」だろうと、とても興味深いことを真木悠介は書いている。

「視覚」は、対象からもっとも距離をおくことができ、対象を認識するうえで主体が身を賭することを最小にすることができる。「触覚」は、主体が身を賭することなしに、対象を知ることができない。

屋外の金属製の手すりは、陽があたっているとき、視覚では「熱そう」であるのにたいし、触覚では「熱い」となる。「熱そう」と「熱い」のあいだには、主体が賭することの程度のひらきが横たわっている。

こうして主体が身を賭することを最小にしながら「危険」を回避しつづけ、いつしか、「目の独裁」が生活のすみずみまでいきわたることになる。「目の独裁」は、ぼくたちの「感覚(センス)」を鈍らせ、ぼくたちが感覚する「世界」を狭めてしまう。

養老孟司のことばを繰り返せば、「ますますからだが置き去りにされる」ことになる。


だから、<触ったときに、ときめくか>という、とてもシンプルな方法は、生きかたを変えてゆく起動装置を、その核心にそなえている。

でも、核心にそなえているだけであって、それを起動してゆくのは、それぞれの個人である。

「目の独裁」はとても強力なので、<触ったときに、ときめくか>という方法を採用して片づけをはじめても、気がつけば、目で判断しているなんてこともおきてくる。

そんな状況にも笑いながら、「世界にふれる」を、もっと日々のなかにとりこんでゆく。そしてまた、「世界をきく」「世界をかぐ」「世界を味わう」ことをひろげてゆくことで、「世界」の奥行きは変わってゆく。ぼくはそう思う。