世界に生きてゆくうえで、たとえば、宮沢賢治『春と修羅』の「序」のことばと共にあること。 / by Jun Nakajima

ふとした時間のあいまに、電子書籍をひらく。


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治『春と修羅』、『宮沢賢治全集』(micpub.com)


宮沢賢治の「心象スケッチ」である『春と修羅』。その「序」の、さいしょのところである。

ふとした時間のあいまだったのだけれども、このことばにいっきにひきこまれ、すごいなあと思うと同時に、じぶんのなかの「深いところ」への道がそっとひらかれるような気がする。

吉本隆明が「宮沢賢治」にかんする文章を書いていたとき、どんなに疲れている日でも宮沢賢治の世界にふたたび戻ってゆくことができたという(たしか、吉本隆明『宮沢賢治』の「あとがき」に書かれている。吉本隆明のこの心境について、ぼくは見田宗介先生の講義ではじめて知った)。

『春と修羅』の「序」を読みながら、その心境が、とてもわかるような気がする。

宮沢賢治の作品にはまったく「わからない」ものもあるのだけれど、「意味」をおいすぎるのではなく、ことばをただおいながら心象をかさねてゆくだけで、なにか、ほっとするようなところがある。


もちろん、この「序」については、語られることの「意味」から見ても、おどろくべき文章である。

『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』(岩波書店)という、ほんとうにすてきな本を世に放たれた、社会学者の見田宗介は、つぎのように書いている。


宮澤賢治が生前に刊行したただひとつの詩集である『春と修羅』の序は、<わたくしといふ現象は>ということばではじまっている。自我というもの、あるいは正確にいうならば自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学のテーゼを、賢治は一九二〇年代に明確に意識し、そして感覚していた。

見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1984年


「自我というもの、あるいは正確にいうならば自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学のテーゼ」を、あの時代に感覚していたこともすごいけれど、なによりも、これほどまであざやかに、この「現代哲学のテーゼ」を書ききったところもすごい。

ぼくにとっては、まさに奇跡のようなことば・文章である。


はじめて、『春と修羅』を読んだのはいつだったろうか。10代のころ、国語の授業などでふれられたときであったろうか。

そのときは、この奇跡のようなことば・文章を、ぼくはまったく「わかっていない」のであった。映画にもなった『銀河鉄道の夜』にはどこまでもひきこまれたけれども、「雨ニモマケズ」にはどこか「道徳のにおい」を勝手に感じてしまっていた。

そうして遠ざかっていた宮沢賢治の作品に、見田宗介『宮沢賢治』(岩波書店、1984年)の本に出会い、ぼくはようやく「入り口」にたつことができた。<わたくしといふ現象は>ではじまる『春と修羅』の「序」にも、ようやく正面から出会うことができた。

出会ったことばたちは、その後、西アフリカのシエラレオネで、東ティモールで、それから香港で、ぼくの生を支えてきてくれた。ほんとうに、いろいろな状況と場面で。

世界に生きていくうえで、そんなことばたちと共にあることがとても大切であったのだということを、今のぼくは思う。