香港の街に出て、食事をするときによく飲む飲み物は「ホットミルクティー」。香港式のホットミルクティー(港式奶茶)である。「香港式」は、とても濃い紅茶に、無糖練乳がたっぷりと入ったミルクティーである。お店によって「味」はさまざまで、その「さまざま」を味わってゆくのも楽しい。
けれども、12年ほど前に香港に移り住んで印象深かった「香港式」は、ミルクティーよりも、むしろ「レモンティー」であった。なぜかと言えば、レモンがたくさん入っていたからである。
レモンがいっぱいに入っている、ただそれだけのことだけれども、「ただそれだけ」のことが、ぼくの脳を少しずつ侵食していくことになる、「香港式」のひとつであったと思う。
レモンの輪切りがいっぱいに入っている紅茶。
このことの「インパクト」をひとことであらわすのであれば、「レモンはいっぱいでもいいんだ」というひとことである。
ぼくたちがある文化の中で暮らしてゆくなかで、ぼくたちはいろいろなものごとを「デフォルト」設定してゆく。ぼくたちが「気がついた」ときにはすでに「デフォルト設定」されていたものもあれば、暮らしてゆくなかでじぶんなりの「選択」を通してデフォルトとして設定してゆくこともある。
「レモンティー」で言えば、日本で暮らしているなかでは、レモンは「輪切り1枚(あるいは2枚?)」であった。少なくとも、ぼくのなかでのデフォルト設定は、そのようであった。そこに暮らしているときは、そのことに対してとくに何か思うわけでもなく、紅茶とともに出される輪切り1枚のレモンの香りとテーストを楽しんでいた。
そのようなデフォルト設定が、香港に来て、「再設定」を迫られることになる。別に誰かに頼まれて再設定を迫られるわけではないけれど、ぼくの「頭の中」で、レモンティーのイメージ設定をしなおすことになる、ということである。
香港の街のふつうのお店でレモンティー(例えば、冷たいレモンティー)を頼むとしよう。そうすると、レモンの輪切りは1枚ではなく、5枚ほどがぎっしりとグラスの底にしずめられて、出てくることになる。なお、紅茶それ自体も、濃い紅茶だ。
これらいっぱいのレモンをスプーンなどで押しつぶしながら、レモン汁を抽出し、紅茶にまぜてゆく。飲み物にシロップ(また砂糖)はふだんはあまりいれないぼくも、香港式のレモンティーにはシロップをいれることになる(あるいは、出されたときに、すでにシロップがまぜられている)。
味も香りもつよい香港式のレモンティーは、こうして、楽しむことができる。
香港に住むようになるよりも、さらに12年ほどをさかのぼった年に、ぼくは旅ではじめて香港に来たのだけれども、そのときは、これらの「香港式」を充分に楽しむことはなかった。
住むようになってはじめて、ぼくは、これらに親しんでゆくことになる。じぶんが「飲む/飲まない」ということにおける「親しさ」ということではなく、ぼくの身の回りの「環境」に、あたりまえのように存在しているという<親しみ>である。
こうして、レモンは輪切り1枚のデフォルト設定が、再設定されてゆくことになる。
香港のレモンティーのレモンは、いっぱいだ。レモンティーのレモンは、いっぱいあってもいい。必ずしも、輪切り1枚でなくてもいい。
もちろん、レモンの輪切り1枚という「レモンティー」のよさもある。そのかすかな香りとテーストが身にしみてくることもあったりする。
でも、ときおり、香港の日系のレストランに行ってレモンティーを頼むと、レモンの輪切りが1枚ついて、レモンティーが提供される。そんなとき、少しさびしさのようなものを感じて、ぼくの頭の中のレモンティーの設定が変わったことを認識したりすることになる。
そして、このようなことは、「レモンティー」だけではないなと、思うことになる。
レモンいっぱいのレモンティー(香港式のレモンティーが日本のレストランで提供されるとすれば、こんな名前がつけられるだろうか…)のように、ぼくのそれまでの「認識」を書き換えてきたような体験・経験を、ぼくは、ここ香港で、さらには東ティモール、西アフリカのシエラレオネ、ニュージーランドでしてきたのだということを思うのである。
追記:
ブログの写真に「レモンティー」をのせたかったのだけれど、写真がなくのせていない。最近はすっかり「香港式ホットミルクティー」なのである。