家の片づけをしながら、現代という時代の「大量消費」のことを思う。
「モノ」への執着はあまりないと思ってきたにもかかわらず、それでも、いろいろな「モノ」が、いろいろな形で、いろいろなところにあるのを見つける。生きることの「豊かさ」をつくってくれる「モノ」が、かならずしもそのように機能せず、また、ぼくも大切にあつかうことができていない。
少し論理が飛躍するけれど、このことは「モノ」だけの話ではなく、「大切にあつかうことができていない」ことが、じぶんの生のどこかに、なんらかの仕方でつながっていたりする。
ともあれ、できるだけ、じぶんなりに「大切にしよう」などと思うのだけれど、現代社会の「構造」のなかに生きていると、「構造」にとりこまれてしまうようなところがある。
「大量消費」のことを思うと、いつも、見田宗介先生(社会学者)の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』で展開された、明晰な論理が憶い起こされる。
「大量生産/大量消費」のシステムとしてふつう語られているものは、一つの無限幻想の形式である。事実は「大量採取/大量生産/大量消費/大量廃棄」という限界づけられたシステムである。
つまり生産の最初の始点と、消費の最後の末端で、この惑星とその気圏との、「自然」の資源と環境の与件に依存し、その許容する範囲に限定されてしか存立しえない。見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)
先進産業地域の都市などに暮らしていると、「大量生産→大量消費」のなかで(忙しく)生きてゆく。街に出ていけば、あるいはインターネットに接続すれば(大量生産でつくられた)「モノ」がいつでも、どこでも手に入り、そして、それらを(大量消費的に)購入し、利用し、楽しむ。使いおわれば、ゴミとして廃棄する。
見田宗介先生が明晰に論じているように、これは「一つの無限幻想の形式」であり、実際には「大量採取→(大量生産→大量消費)→大量廃棄」という限界づけられたシステムである。
日々の生活のなかでこの「限界づけられたシステム」(の両端)を感じることはあまりなく、「モノを購入して消費し、そして廃棄する」ことを、ただふつうの日常として生きる。でもときに、テレビやインターネットの写真や映像で、「大量採取」と「大量廃棄」を知識として知る。遠くの出来事のように感じたり、心を傷めたりしながら。
前出の著書で、見田宗介先生がさらに論じているように、歴史的な大量消費社会は、この限界づけられたシステムの両端、つまり「大量採取」と「大量廃棄」を、「外部」の諸社会や諸地域に転嫁することで存立してきたのである。
いろいろな物事は、このような「間接化」され、視えなくされることで存立している。
もちろん、これらのことを「知って」いるだけでは、この限界づけられたシステムから解き放たれることはできないし、また、個々それぞれにゴミを少なくしたり(なくしたり)、リサイクルをすすめたりするだけでは、(それらはとても大切なことであるけれども)なかなか「解放の道」が見えないものでもある。
でも、人びとが、このような社会を理解し、そこから解き放たれてゆくことの「物語」を共有することなしに、道はひらけていかない。だから、知ることと、個々にできることをすることは出発点でもある。
見田宗介先生は、21世紀の人間にとって切実な課題を、ポジティブに定式化して、つぎのように書いている。
…<自由な社会>という理念を手放すことなしに、現在あるような形の「成長」依存的な経済構造=社会構造=精神構造からの解放の道を見出すということが、二十一世紀の人間にとって切実に現実的な課題として立ち現れる。
見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)※2018年増補版
ハイライトをつけておきたいのは、「経済構造=社会構造=精神構造」からの解放の道であるということ。経済/社会/精神が相互に連関する構造として、描かれていることである。
経済/社会/精神のそれぞれが「同時に」すすんでゆくこともあれば、それぞれのあいだに時間的/空間的なギャップ(あるいは緊張)をつくりながら動いてゆくこともある。「現代」は、まさにそのような<過渡期>であるとも言える。
「じぶん」がいる立ち位置を確認しながら、じぶんの生を抑圧するのではなく、ひらいてゆく方向に(ほんとうの「歓び」を深めてゆく方向に)、「解放の道」をそれぞれに見つけたい。そのために、「じぶん」という経験の内奥に、降りてゆくこと。