「意識」にたいして、「無意識」という言葉が使われることがある。日常の意識とは異なり、もっと深いところにあって、普段はあらわれないような次元の意識である。ぼくも、普段の会話では、この深い次元の意識のことを「無意識」という言葉で語ったりする。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、著作のなかで、この「無意識」ではなく、「深層意識」という言葉をよく使っている。河合隼雄の著作群を読みながら、そのことに気づいてはいたのだけれど、より具体的に、その「理由」を知ってはいなかった。あくまでも、「おそらく」の推測で、ぼくは考えていただけであった。
そんな折に、河合隼雄自身が、「フロイトやユングが無意識と言っているのはおかしい」、と語っているところに、著作のなかで出くわすことができた。
…フロイトやユングが無意識と言っているのはほんとうはおかしいと思うのです。なぜかと言えば、無意識と言っても、結局、その話をするわけですから、意識ですね。意識しないと話はできないわけだから。したがって「私は無意識的にこういう癖があるんです」と言ったとたんに意識化されているわけです。だから無意識という言葉を使うのはおかしいと思うんですが、フロイトやユングは西洋人ですから、自分を対象化するときに自分が意識でこう思って、心のなかを対象化したものを無意識と呼んでいると考えると、よくわかります。ですから正確には対象化してみると、自分の深いところにこういう癖があったと、そういう言い方をすべきなのでしょう。それで自分の今の意識と違う言葉を使わなければならないので、無意識と言ったのだと思います。
河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)
ここでの主題は「明恵上人と宮沢賢治の共通点」(※この主題はこの主題で非常に興味深い)で、東洋的なところに焦点をあてていることから、フロイトやユングの「西洋的な見方」が比較対象としてもちだされている。
東洋的なところでは、このあとすぐに語られているように、たとえば東洋の宗教では、「対象化せずに、自分がそのなかに入っていく」ことになる。そこで、意識の「段階」が変わるといった感覚において、「深層意識」という言葉のほうがいいと、河合隼雄は語っている。
ところで、ここ数日ブログでもとりあげている、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(岩波文庫)を読んでいて、このあたりの言葉が、哲学的な色彩をあびながら、しかしとても明晰にふれられ、語られていることに、関心をひかれる。
じぶんに学ぶ準備ができたときに、やはり、「師」はあらわれる。
『意識と本質』では、最初から、「表層意識」と「深層意識」というような言葉が使われている。このような言葉を丁寧に布置しながら、井筒俊彦は「意識」について書いている。言葉の布置が決定的な役目を果たしているのを読んで、まさに、「東洋哲学全体の地図を作成しようとしている」(大澤真幸)書物であることを感じる。
なお、以前のブログでも書いたように、『意識と本質』は、河合隼雄が勧める「この一冊」でもあり、井筒俊彦による言葉の布置に親しんでいたと思われる。
それぞれのものごとをどのように言葉であらわし、それぞれの言葉をどのように位置付けるのか。ただの「言葉の布置」でしかない、と片付けてしまうにはもったいない。井筒俊彦も河合隼雄もそれぞれに、じっさいの「経験」にせまってゆく仕方で、「言葉」を丁寧にとりあげ、位置付けている。
意識と無意識、表層意識と深層意識、といったテーマは、ぼくにとっても決定的に大切なテーマであるから、井筒俊彦や河合隼雄の言葉の使い方や言葉の布置に学ぶところが、ぼくには山ほどある。
さて、これからどう言葉を使おうかと考えてしまうけれど、「無意識」という言葉のほうが日常ではよく使われるから、相手や文脈をたしかめながら、これからも「無意識」という言葉を、ぼくは使っていくだろう。けれども、時と場合によっては、「深層意識」という言葉を使っていこうとも思う。さしあたっては。